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日録2003年11月
30 november 2003(日)

◇一晩中降り続き,朝になってもなお雨足強し.

◇明け方にカルロ・ギンズブルグ『歴史を逆なでに読む』の書評を書き上げる.400字詰にして8枚ほどになった.これで,やっと小川眞里子『甦るダーウィン:進化論という物語り』を読み進むための大道具・小道具がそろった.

◇毎週の習慣で,TRC週刊新刊案内今週分をチェック――セレクション1351号.※今週はとっても豊作ですぞ.おお,大屋幸世『蒐書日誌 四』(皓星社,ISBN: 4-7744-0356-3)が出版されたか! 定価2800円ということは,既刊の『蒐書日誌』から物価上昇分を勘案して外挿すると,350ページくらいかな.さらに推論すると,『蒐書日誌 三』が2000年と2001年の2年間で550ページだったので,今回の巻は〈2002年分のみ〉ということになるのだろう.それにしても二段組みの本を毎年出し続けるとはたいしたもの.

◇午後になってやっと晴れ間がのぞく.

◇培風館『植物育種学辞典』(→進捗)――〈自然選択/自然選択説/種選択〉書き終える.〈自然選択〉は進化メカニズムとしての自然淘汰について書く.〈自然選択説〉は淘汰単位(unit of selection)論議を中心にして,としての自然淘汰のターゲット(selection for)とその結果(selection of)のちがいについて.複数レベル淘汰にも言及.〈種選択〉はあくまでも1980年前後の大進化論争における歴史エピソードのひとつとして,断続平衡説との関わり,小進化/大進化のデカップリングなどを書く(「噴火」せず).さらに,〈進化/進化学〉も終える.〈進化〉は生物・非生物にわたる現象としての「descent with modification」を説明し,設問様式としての「Why?/How?」のちがいに触れる.進化仮説の経験的テストのあり方(歴史学との類似性)に言及した.〈進化学〉は1930年代の「現代的総合」以降の学史を概観.これで残るは〈進化論〉だけになった.これはさらにさかのぼった学史の記述にする予定.

◇夜になって再び雨模様.どーなってるのん?

◇本日の総歩数=2875歩.※外をぜんぜん歩いてない....


29 november 2003(土)

◇明け方から雨.この週末はこういう天気か.季節外れの大型台風が近づいているそうだ.

先日届いた小川眞里子『甦るダーウィン:進化論という物語り』を読み始める.カルロ・ギンズブルグ『歴史を逆なでに読む』とヘイドン・ホワイト『物語と歴史』であらかじめ「予習」しておいたので,〈物語り(narrative)〉という表現への免疫はついていると思う.第1章「進化論とはいかなる科学か?」をいま読み進んでいる.進化理論のテスト可能性(ポパー的な意味での)への批判に対抗して「〈物語り〉的説明」を擁護しようというのが著者の基本的スタンスだと理解した.それは大筋でまちがってはいない.しかし,典型科学としてポパーが念頭に置いていた普遍化科学(物理学のような)に進化学のような歴史科学を対置させる上では,〈物語り〉を前面に立てるだけでは力不足だと感じる.

◇なぜ〈物語り〉だけでは力不足か――この本では〈個物(individual)〉 vs 〈クラス(class)〉という基本的な対置がまったく論じられていないからだ.〈物語り〉論を言いたいのであれば,まずはじめにその「主体(central subject)」が何であるのかを論じなければならない.物理学のような普遍化科学でいう法則とは〈クラス〉に関する法則であるのに対し,進化学ではそれが適用できない〈個物〉の学問であるという点を著者は指摘すべきではなかったか.仮説のテスト可能性はそのあとの話だ.著者は――

進化理論のユニークさは,方法論にあるのではなく,存在論にあると見なければならないと彼[Marc Ereshefsky]は結論付ける.しかし,これでは説明の放棄ではないだろうか.(p.26)

――と言う.ぼくに言わせれば,進化学における〈個物〉vs〈クラス〉の存在論的対置を指摘した Ereshefsky の方が正しいのであって,その意味を見抜けない著者の方がまちがっていると思う.

◇さらに言えば,著者は進化理論の科学的地位を論じるにあたって,進化仮説のタイプ分けを怠っているように見受けられる.たとえば,自然淘汰に関する仮説(進化過程の仮説)と系統類縁関係に関する仮説(分岐図)では経験的テストのあり方は異なる.それらをひっくるめて論じることはできないはずだ.著者が文中で言及している David Hull や Robert O'Hara はその区別はしていたとぼくは理解している.少なくとも O'Hara が――

  • Robert J. O'Hara 1988. Homage to Clio, or, toward an historical philosophy for evolutionary biology. Systematic Zoology, 37(2): 142-155.

――の中で述べた〈年代記(chronicle)〉と〈歴史(history)〉は分岐学の枠組みの中での対置であって,単なる〈物語り〉論を擁護しているとは考えられない.進化史の主体はクレードであり,年代記としての分岐図をまずテストし,そのあとで歴史としての進化シナリオのテストに進むべきだというのが O'Hara の基本姿勢である.科学哲学ではなく歴史哲学を見直そうという彼の宣言は,〈クラス〉を論じてきた「科学哲学」に拘泥するのではなく〈個物〉を論じる「歴史哲学」に目を向けようという大きなメッセージだとぼくは受け取った.あくまでも〈存在論〉をベースにしなければ,このような論議の置かれている文脈は理解しがたいと思う.

◇というわけで,第1章はぼくにはイマイチでした.むしろ,第2章以降の方がおもしろそうだ.読む読む.

◇小学館〈武満徹全集〉の新刊『第4巻:映画音楽2』が出た――この全集に関わるまでは,〈タケミツ〉と言えば管弦楽曲しか思い浮かばなかったのだが,有名な映画やテレビ番組の主題曲を何曲もつくっていることを初めて知った.この全集の既刊は『第1巻:管弦楽曲』,『第2巻:器楽曲・合唱曲』,『第3巻:映画音楽1』.最終巻の『第5巻:うた・テープ音楽 etc.』は来年5月に刊行予定とのこと.ぼくが翻訳に携わった第1巻はすでに5刷だという.〈モーツァルト全集〉と〈バッハ全集〉に続く小学館の個人作曲家全集第3弾は順調と見た.

◇ブック・マーケットにて――千野栄一『言語学フォーエバー』(2002年7月1日刊行,大修館書店,ISBN: 4-469-21274-1,2200円→600円),蘇培成・尹斌庸『中国の漢字問題』(1999年12月1日刊行,大修館書店,ISBN: 4-469-23208-4,2500円→600円),大束省三『北欧音楽入門』(2000年6月10日刊行,音楽之友社,ISBN: 4-276-37085-X,1700円→500円).『中国の漢字問題』は「簡体字」成立の事情と現代抱える問題を論じた本.「繁体字」を簡略化することは中国の国家的使命だったのか.魯迅いわく「漢字が滅ばなければ,中国が必ず滅亡する」(p.5).『言語学フォーエバー』は昨年亡くなった著者のエッセイ選集.この著者のプラハ〈古書&ビール〉本はもっと読んでみたい気もする.『北欧音楽入門』は「入門」ではない.この入れ込みようはただごとではない.シベリウス,グリーグ,ニールセンはもちろん,聞いたこともない作曲家がぞろぞろ登場する.巻末の「人名一覧」は見物.※この項,どうみても〈蒐書日誌〉ですな.

◇故Philip F. Rehbock『The Philosophical Naturalists』(1983年,The University of Wisconsin Press)をじわっと読み進めてみる.この本,最後まで読み終えていなかった.19世紀前半のイギリスにおける〈超越論的生物学(transcendental biology)〉の系譜をたどった第1部を読了.自然界に観念論的パターンを見出そうとした試みが次々に出てくる.骨まで経験主義の国にあって,大陸的な〈Naturphilosophie〉観念論がなぜ大流行したのかがおもしろいところ.イギリスの哲学的ナチュラリストたちは,大陸から観念論を移植しただけではなく,その時空的な展開を独自に行ない,生物地理学と生態学における超越論(transcendentalism)をもつにいたったという結論が本書のアピールになる(それが第2部).

◇本日の総歩数=7946歩.


28 november 2003(金)

◇下り坂との予報だが,日が射したりしている.さほど寒くはない――が,午前3時過ぎはやはり冷えますな.

Alibrisから,S.J. Gould & R.W. Purcell 著『Crossing Over: Where Art and Science Meet』(2000年,Three Rivers Press,ISBN: 0-609-80586-X)が届く.グールド&パーセルによる写真エッセイ集の第3作――前2作もAlibrisからすでに発送完了とのメールをもらっている.連作エッセイ集だけでなく,こういう画文集?もなかなかいいと思う.東大生協書籍部『ほん』特集用のグールド“若書き”原稿をそろそろ書かないと.でも,しばし,現実逃避ぃ――

――していたら,〈オーバーハング〉で滑落した.うわ〜〜.

◇〈進化・進化学・進化論〉――「進化」は生物にかぎらない〈descent with modification〉からはじめて,系統関係とか進化過程を入れよう.「進化論」は学説史が中心か.「進化学」は現在の進化研究を概観する.こんな感じで何とかまとめよう(恣意的な仕分けかとも思うが).

◇〈自然選択・自然選択説・種選択〉――「自然選択」は“力”の理論としての自然選択を書く.「自然選択説」はダーウィン以来の学説史.「種選択」は大爆発しないように自制しないと....

◇な〜んだ,これで楽勝じゃん!――だったら,もっと早く仕上げろって? うわ〜〜(さらに滑落).

◇本日の総歩数=8875歩.


27 november 2003(木)

◇午前3時起き――ある人いわく〈自発的時差生活者〉と.季節がら,バッハ・コレギウム・ジャパンの『クリスマス・オラトリオ』など聴きつつ.

昨晩届いた本――原田健一『南方熊楠:進化論・政治・性』(2003年11月17日刊行,平凡社,ISBN: 4-582-53714-6).南方熊楠旧宅から発見された新資料に基づいて書かれた本とのこと.献本ありがとうございました.第1部の「進化論」が関心を引く.それにしても,ミナカタ=〈妖怪〉=〈異界〉だよねえ.蔵書に「鼻毛」やら「陰毛」がはさまったままだというから,そのなまなましさは〈物の怪〉以外の何ものでもない.ふっと憑かれるかしら....※ん,同じく平凡社から『植草甚一コラージュ日記(I・II)』が出てるやん.先月出た「I」は『東京1976』,今月新刊の「II」は『ニューヨーク1974』.1976年というのは,ぼくが京都から東京に出てきた年.

◇遅れに遅れまくった『植物育種学辞典』だったが,やっと頂上が見えてきた(→進捗).残るは〈進化〉関連3項目と〈自然選択〉関連3項目の計6項目のみ(頂上直下のオーバーハングという気配があるけど...).

久保高座・その3〈データにあわせる統計モデリングの例 -- なんでも割算すんな!〉の講義資料(pdf)をダウンロードさせていただく.今回が最終回.都立大学の生物統計学受講生さんたちにも周知します.一般化線形モデルを偏愛?している人はぜひ見るべし.

◇夜は昭和堂書店『鳥類学辞典』の三校ゲラの最終チェック.系統学・生物地理学関連で計25項目.これまた多いなあ.明日返送する.※すでに返送したつもりが,堆積郵便物の中であえなく溺死していた....「つもり」で仕事がこなせれば言うことなしなんやけど(……アホちゃうか?).

ジョン・ハニー『言葉にこだわるイギリス社会』ほぼ読了――10年ほど前に出たフロリアン・クルマス『ことばの経済学』(1993年,大修館書店)が国際社会での言語間の「経済格差」を論じたのと呼応するように,本書はイギリス社会の中での階級アクセント(訛り,階級的方言)のもつ「経済格差」を論じている.キーワードは【RP(容認発音)】すなわち社会的に「標準」と認められているアクセントの体系.クイーンズ・イングリッシュは「有標のRP」として「別室お通し」で,その他の「無標のRP」と比較して特殊な社会的ニュアンスがあるそうだ(王室関係者以外の一般人が使うとマイナスになるとか).イギリスが「ことばに厳しい社会」であることを痛感する.社会の中で「上昇」していこうとするとき,ことば(アクセント)を自発的に変えていく必要があるとは.しかも,その階級制が廃墟化しつつある現在,アクセントを問題視すること自体がタブーであると感じられているにもかかわらず,テレビやラジオのアナウンサーたちの「アクセントの悪さ」に対しては視聴者からの矢のような投書が寄せられるという.アクセントの経済価値でいうと,中部のリヴァプール訛りやバーミンガム訛りは最低ランクだそうな.一方,南東部のデヴォン訛りは「癒し」効果があるらしい(ホンマかいな).スコットランドでもエディンバラ訛りは教養溢れるスコッチと受け取られるのに対し,グラスゴー訛りはダメダメなんだって.英語を母国語としない外国人は最初から〈埒外〉なので,かえって救われるという指摘も.いろいろ楽しい話題に事欠かない本.著者はあくまでも「英語標準化」のスタンスから発言している(現実派といえるが,外挿も一般化もできないだろう).※社会言語学っていかにも「ルポ」的でぼくの好みです.田中克彦だって『チョムスキー』(なんでこんなのが岩波現代文庫に入ったりするのか...)みたいなトンデモ本じゃなくって,本来の社会言語学分野の本をもっと書けばいいのに.たとえば田中克彦とH・ハールマンの『現代ヨーロッパの言語』(1985年,岩波新書)は印象に残る本だった.

◇本日の総歩数=12028歩.


26 november 2003(水)

◇一転快晴,実に目まぐるしい変わりよう.

◇もだえ苦しむ辞書執筆者,地獄のクラクラ――まるで谷地の「壷」にはまり込んでしまったよーな.そう,ディーム.なんでこんな「トラブルメーカー」を後世に残してくれたのか.J.S.L. Gilmour,ウラミますぞ.たった〈300字〉でケリつけられるはずないでしょ.脇道・路地・裏庭・地下室・座敷牢――

◇手始めに,岩波『生物学辞典・第4版』をひもとくと,いわく(963h)――

【デーム(deme)】[1]遺伝的に分化した小集団によって構成されている,一つの生物種の最小交配単位.近代遺伝学の進歩に伴い種が遺伝的には必ずしも均質でないことが認識されるようになり,G.S.L. GilmourとW.K. グレゴリ(1939)が種を構成する交配単位として提唱.

――しかし,この解説には複数の誤りが含まれている.

  • まずは軽く人名のミスから――現在用いられている意味での〈deme〉は,植物学者J.S.L. Gilmourと実験分類学者J.W. Gregorが『Nature』誌で提唱した:
    • J.S.L. Gilmour & J.W. Gregor 1939. Demes: a suggested new terminology. Nature, 144: 333.
  • この論文で著者たちは〈deme〉ということばを提唱した(正確にはリバイバルさせた)理由として「Such phrases as ‘local interbreeding populations’ or ‘populations occupying a specific ecological habitat’ are cumbersome, and it is felt that a more concise terminology would be useful, and further, would focus attention on certain concepts undoubtedly of great importance in the study of intra-group variation. We propose the term deme (from the Greek δημοσ) for this purpose, with appropriate prefixes to denote particular kinds of demes」と述べている.ついうっかり読み流してしまうと,上記『生物学辞典・第4版』の記載では〈deme〉が局所交配集団であるかのように誤解されしまうが,すっぴんの〈deme〉にそういう意味はもともとない.
  • この記事の最後に〈deme〉の正確な定義が「Deme: any assemblage of taxonomically closely related individuals」と与えられている.「分類学的に近縁な個体の任意の集まり」というのはとてつもなく茫漠とした定義だ.だからこそ〈deme〉を実際に使うときには,特定の限定的接頭辞を付けて,交配する〈deme〉ならば〈gamodeme〉,あるニッチを占める〈deme〉ならば〈ecodeme〉と呼ぼうというのが提唱者の意図だった.語幹としての〈deme〉は実に融通の効く用語であって,記事中には遠隔のデヴォンとスコットランドの集団であってもひとつの〈ecodeme〉を形成しえるというような例が挙げられている.(旧版『生物学辞典・第3版』ではこれらの〈deme〉語群の体系がより詳細に説明されている――『生物学辞典』に関するかぎり旧版を廃棄するのは禁物である.実際に「第4版」改訂に際して矢原徹一&河田雅圭の両氏とともに進化系統分野の項目選定と執筆をした経験からいえば,新しい項目を詰め込むために旧項目をやむを得ず大幅に削ったり短縮したりした.したがって,デームのような歴史のある用語については旧版の方がむしろ詳しく説明されていたりすることもまれではない.岩波の辞典担当の人も「旧版は残しておいて下さい」と言っていた.
  • もちろん,ことばの「誤用」をいまさらあれこれ詮索してもしかたがない.〈deme〉が「最小交配集団」の意味で通用し,集団遺伝学や自然淘汰理論での概念装置としてすでに定着している.提唱者の意図が誤解されたことは確かだが,Gilmour & Gregorが単に「簡便なことばを提唱した」というだけで『Nature』に掲載されたわけではないこともまた確かだ.〈deme〉はもともと【種】問題を解決すべく提案されたという背景がある.Mary P. Winsorのふたつの論文:
    • Winsor, M.P. 1995. The English debate on taxonomy and phylogeny, 1937-1940. History and Philosophy of the Life Sciences, 17: 227-252.
    • Winsor, M.P. 2000. Species, demes, and the Omega taxonomy: Gilmour and The New Systematics. Biology and Philosophy, 15: 349-388.
    は,〈deme〉概念が埋めこまれていた歴史的文脈をたどる上でいいガイド役を果たしている.
  • 当時の実験分類学派(後の“biosystematics”派)の洗礼を受けたGilmourは,旧来的な意味での【種】概念とおさらばするために〈deme〉語群を提唱したのに,周囲の「誤解」によってその目的を達成することができなかったそうだ.彼は【種】と対決したのではなく,【種】を密封したうえで,その代替として〈deme〉を提案したということ.Gilmourは,その後,再度〈deme〉概念の徹底周知をはかるべく,John(“Jack”)Heslop-Harrison(←『A Rum Affair』の主役John W. Heslop-Harrisonの息子)と共著で:
    • Gilmour, J.S.L. and J. Heslop-Harrison 1954. The deme terminology and the units of micro-evolutionary change. Genetica, 27: 147-161.
    という論文を出したが,「誤解の壁」を解くことは結局できなかった.
  • このGilmourという人は,1937年に分類体系に関する「Gilmour自然性(Gilmour naturalness)」すなわち特定の目的のためだけに限定されないall-puposeな分類体系をつくるべきだと主張して,後の数量表形学派の理論的バックボーンとなった.ただし,Gilmourのいう「自然分類」はJohn Stuart Millの〈natural kinds〉論を前提とする異界的な色合いが強い.彼は〈理想の分類〉として「アルファ分類」の対極にある【オメガ分類】を目指そうとした.Gilmourの【オメガ分類】は明らかに当時の実験分類学派の党綱領を反映した理想郷だった.

――こういうラビリントスに入り込んでしまうと,なかなか先に進みませんな.そんなこんなのウラ話はすべて封印して,オモテの〈300字〉を書き上げましょ.

◇本日の総歩数=8435歩.※狭い「路地」では歩数かせげず.


25 november 2003(火)

◇夜半から本降り.晩秋の雨は身に堪える.さぶ....

◇のたうつ『植物育種学辞典』――項目リストに進捗状況を書き込む(●=完了;◎=途中;○=徹一...とちごて...手付かず).辞書項目の「執筆ラクラク度」には金言あり:「generalな項目ほど書きにくい;specificな項目ほど書きやすい」.確かに,〈共分散〉とか〈多変量分散分析〉だったらラクちんだが,〈進化〉とかいったいどーせえ言うねんて!(おまけに,ごていねいに〈進化/進化学/進化論〉と三項目もあるし) 〈自然選択/自然選択説/種選択〉も十分に書きづらいぞ.※【種】なんてのをぼくに与えてどーするの?(別の人が書いても「文句たれ」になりませんてば>のぞみ氏) ま,全32項目中21項目は完了しているので,あと少しだ.〈適者生存〉書き上げっ(→22/32に訂正).次は〈分類群集団(deme)〉――この訳語はダメダメね.「ディーム」のままにしましょ.

◇一日中降り続く雨,夕方に雷鳴と稲妻あり.

◇昭和堂書店から『鳥類学辞典』の三校ゲラが届く.細かいところをチェックして返送.これで責了.辞書づくりって手間ひまかかりますね.

◇夜,ギンズブルグ『歴史を逆なでに読む』読了.ぼくが読みたかった内容は前半第1部だけだった.ヘイドン・ホワイト,蹴られまくり――ギンズブルグの批判に応えずして,「物語(narrative)論」に明日はない.※最終章で言及されているアルブレヒト・デューラーの『人体比例についての四書』は,形態測定学の起源のひとつに数えられている.

◇本日の総歩数=6709歩.


24 november 2003(月)振替休日

◇朝から雲が低くて肌寒い.

◇培風館『植物育種学辞典』の項目を今頃になってばりばりと書き始める.どえやぁっ!――まずは系統学関連の項目を血祭りにあげ(あげられたんとちゃいますぅ),返す刀で統計項目をぼこぼこにする(されたんとちゃいますぅ).う゛なかなか敵はしぶといぞ...(汗).

◇巖谷國士『フランスの不思議な町』(1998年11月25日刊行,筑摩書房,ISBN: 4-480-81419-1)読了――フランス国内でも〈辺境〉につい惹かれてしまう.西南端の「バイヨンヌ」とか,地中海岸の「エーグ・モルト」とか.「ルーアン」の髑髏アトリウムはぞくぞくする.モノクロ写真ゆえの廃墟っぽさがありあり.黒死病の犠牲者を積み重ねた墓所だとか.レイデンのpesthuisも黒死病がらみの建築物だった.結核と同様,ペストも文化を形づくったか?

◇太田邦昌追悼特集は『生物科学』と『Panmixia』でパラレルに組まれる予定.『Panmixia』の特集は先月の〈太田追悼シンポ〉の講演者で何とかなりそう.『生物科学』特集の方はいま着々と執筆者が集まりつつある.太田二番弟子さんから,「太田一番弟子になぜ声をかけないのか?」とのお言葉.こりゃうっかりしてましたな.明日にでも隣りの研究所まで引導を渡しに行こう――「もう観念しなさいね,M井部長」.

◇ノバホールでのチェコ・フィル演奏会――ズデネーク・マカル指揮で,ヤナーチェク〈シンフォニェッタ〉・ノヴァーク〈タトラ山にて〉・ドヴォルザーク〈新世界から〉のオール・チェコ・プロ.前プロの〈シンフォニェッタ〉が聴けただけで来たかいあり.ワーグナー・チューバ2本のユニゾンで始まる.バス・トランペットいい音出してました.プログラム・ノートを見ると,ヤナーチェクがモラヴィアの首都ブルノの聖アウグスティノ会修道院聖歌隊に入ったのは1865年のこと.グレゴール・メンデルが『雑種植物の研究』を同地で出版した年にあたる.メンデルが修道院長に就任したのが1868年だから,ヤナーチェクはずいぶん長い期間をメンデルとともに過ごしたということになる.メンデルの葬儀(1884年)に際しての音楽指揮をつとめたというのももっともなことか.

◇ピーターパン吾妻店に予約しておいた〈Sesami Roggenbrot〉1.5kg塊を引き取りに行く.レーズンとライ麦が粒のまま入っている.黒胡麻のトッピング.今週の食糧です.カフェ・オ・レに浸して食べましょう(昔の記憶がunfoldするわけではないが).

◇本日の総歩数=8121歩.


23 november 2003(日)勤労感謝の日

◇晴天続きの連休――日がな一日〈紙魚〉であり続けるのはつらいかも.

◇今週の新刊チェック――TRC週間新刊リスト1350号.※だいたいは予想通りのラインナップなのだが,原田健一著『南方熊楠:進化論・政治・性』(平凡社,ISBN: 4-582-53714-6)という初めて見るタイトルも.伝記らしいが,はてさていったいどのような本か.ジョン・ハニー著『言葉にこだわるイギリス社会』(岩波書店,ISBN: 4-00-022839-0)はさっそくゲット.なかなかおもしろい.地理的方言ではない社会階層的方言に関する本.ほほー,〈Queen's English〉というのはそーいう社会的位置づけの「ことば」だったのですね.そのまま日本にもちこめるような論議ではなさそうだが.

◇やばやば,いろいろと詰まってきた――最密パッキング状態.デフラグメントする必要あり? やばやば.

◇げ,〈transcendental〉に〈先験的〉という訳語を当てるのはマズかったっすか?――ふむ,〈超越論的〉が妥当な訳語だろうというN部@一時逃避中さんからのメール.ちょっと調べてみますぅ――ってな〈逃避行動の解発因〉となる「不孝の手紙」を送られてはホンマに困りますなぁ >N部氏.

◇本日の総歩数=1112歩.※〈怠歩類〉という新しいでも創りましょーか.


22 november 2003(土)

◇今日も快晴.いかにも初冬らしい空の高さ.

◇生物学史研究者の Philip F. Rehbock が一昨年に亡くなっていたらしい.Isis(vol.94, no.3, September 2003)に訃報が載っているとのこと.20年前の彼の主著『The Philosophical Naturalists: Themes in Early Nineteenth-century British Biology』(1983年,Univ. of Wisconsin Press)は,〈ヨーロッパ大陸的〉な観念論的生物学(Naturphilosophie)がイングランドやスコットランドの生物学者たち――たとえば当時のエディンバラでダーウィンの師でもあった Robert Grant やRobert Knox,Edward Forbes,William Carpenterら――にどのような影響を及ぼしたかを論じた名著だと思う.『Evolution――その観念史を探る文献リスト(第3版)』にも挙げてあるが,とりわけ当時の先験的(transcendental)な生物観についてよく書かれていたと記憶している.

◇〈Res:もの研究会〉世話人の佐藤啓介さんのレスをEVOLVEに転載させてもらった.その際に,下記のコメントを追加――


Date: Sat, 22 Nov 2003 10:18:03 +0900
From: MINAKA Nobuhiro <minaka@affrc.go.jp>
To: evolve@ml.affrc.go.jp
Subject: [evolve:10884] Re: <Disc>大賀克彦〈「起源」の a priori〉,第5回もの研究会

EVOLVE reader 諸氏:
(cc:佐藤啓介@「Res:もの研究会」世話人さま)

三中信宏(農環研← PPP from 自宅)です.

佐藤さんの追加コメントには,いくつかの論点が含まれています:

  • オスカー・モンテリウスのいう考古学の「型式学(typology)」は生物分類学での「類型学(typology)」とどれくらいパラレルなものと見なせるのか.〈タイプ〉を正しく分けることがモンテリウスの「型式学」の主たる目的であるとしたら,彼は当時の正統派の生物分類学を間近に見つつ(なんたってリンネが同国人だし),考古学における分類のあり方を考察したのかもしれない.ただし,考古分類学の対象(遺跡や史料)は非生物なので,その点での生物分類学とのちがい――〈タイプ〉とその要素である〈トークン〉の解釈,「本質」や「natural kinds」のとらえ方,分類体系化のあり方など――がどのように発現しているのか気になるところ.

  • 生物進化思想が周縁の人文・社会科学に影響を与え続けたのと同じ意味で,生物分類思想も人文・社会科学における「分類行為」に影響を与えたと考えるべきか.それとも,根っこは同じで,発現場所がちがっていただけのことなのか.後者であればおもしろいのだが.モンテリウスが活動した1900年代初頭のヨーロッパというと,ヘッケル流の系統学もまだその影響力を強く保持していたと思われる.モンテリウスの〈系譜学〉もまた時差のあるその反映と見なせるか.あるいは,生物学を経由せずにアウグスト・シュライヒャーの歴史言語学あるいは文献系譜学[からの影響]もあったのか.

  • 考古学での「分類学」については,1970年代初頭に何冊かの関連文献がある:

    • Robert C. Dunnell (1971: 2002 reprint), "Systematics in Prehistory", The Blackburn Press, Caldwell

    • Hodson, F.R. et al. [eds.] (1971), "Mathematics in the Archaeological and Historical Sciences", Edinburgh University Press.

    いずれも,当時の生物分類学で流行した「数量分類学」の動向 に影響されて,クラスター分析や多次元尺度法を考古学データ に適用するという色合いが強かった(とくに後者の論文集).ただし,前者の本にみられるような一般体系学とも呼べる議論 が考古学界でもなされていたことは特筆されるべきだろう.言及されているモンテリウスの「分類学/系譜学」の成立は,そういう議論のルーツがさらにさかのぼれることを示唆しているようだ.

  • 「日本は型式学的研究が重視される傾向にあります」というコメントを見て,西村三郎の『文明の中の博物学:西欧と日本(上・下)』(1999)を想起した.本書には,日本の博物学が現在にいたるまで「個物崇拝」に傾 斜する背景には,中国の「正名思想」が連綿と生き続けている あるからではないかという指摘がある.学問の別を問わず,国ごとの差異があるのは十分に予想されることだが,〈分類〉に対する基本姿勢にも個々の国ごとにパラレルな同調性が見られるとしたらおもしろい.

――なお,上で言及されているモンテリウスの『考古学方法論』はオンライン古書店を通じて今でも入手可能なようだ.2000円前後の価格.ひょっとしたら新刊でも手に入るか?

◇日外アソシエーツから新刊『現代日本執筆者大事典・第4期』(2003年11月25日刊行,全5巻)の案内.計10万円もするレファレンスを個人蔵する予定はさらさらないが,研究所に買わせるか.本書の末席を汚しているので,何かの機会にチェックしておきたいと思う.それにしても,データベース出版業のこの会社,次々に企画を出してくるねえ.

◇昼間は暖かかったのに,日暮れて気温急降下――並走する読書:ストラットン『パイオニア・ウーマン』,ギンズブルグ『歴史を逆なでに読む』,巖谷國士『フランスの不思議な町』.

◇本日の総歩数=4091歩.


21 november 2003(金)

◇からっと快晴,突き抜けました.

◇おお,いつの間にか農環研の情報資料課図書室の書庫にLANが張られているではないか.接続完了――こりゃ便利だ.居室に縛られずに,〈我が世の春〉を謳歌できるではないか.「紙魚」にも使えるLAN環境.うはうは.

◇ヘイドン・ホワイト『物語と歴史』の書評を仕上げる――ターゲット論文を書いたホワイトは:


われわれは生まれつき物語る衝動を持ち,現実に起きた事件の様子を述べようとすれば,物語以外の形式はとりえないほどなのだ.(p.9)

と言う.しかし,そういう“衝動”は,歴史学における事実と仮説の区別,対立する仮説群に対する経験的な支持の程度のちがいなど,歴史に関わる復元や推定の経験的基盤をないがしろにする論拠にはならないだろう.続けて彼は,歴史の〈物語〉には「語り手」が必要であると強調しつつ:

現実の出来事が語る,自ら語るなどということは起きえよう筈がないのである.現実の出来事は,黙って存在さえしていればそれで足りるのだ.(p.13)

と言う.マジ? 「語り手」に全権を委ねるというのはとても危なっかしいぞ.誰が(あるいは何が)「語り手」に歯止めをかけるのかという観点が欠けている.やりたい放題ですか?

◇さらに,ホワイトは,歴史学において〈物語〉が果たす役割について:


もし,語りと物語性とを,架空の事柄と現実の事柄とを一つの叙述の中で出会わせ,結びつけ,あるいは溶けあわせる手段であると考えるならば,物語の魅力と,物語を拒絶する根拠とを同時に理解できるだろう.(pp.14-15)

とあえて反論を煽る.パトスを煽るだけで,ロゴスが置き去り(なおざり)にされているのが見えてしまう.

◇ホワイト流の歴史〈物語〉論に抗する批判陣営の筆頭カルロ・ギンズブルグは『歴史を逆なでに読む』(2003年,みすず書房)の中で当然こう指摘する――


今日,歴史叙述には(どんな歴史叙述にも程度の差こそあれ)物語的な次元が含まれているということが強調されるとき,そこには,フィクションとヒストリー,空想的な物語と真実とを語っているのだと称している物語とのいっさいの区別を,事実上廃止してしまおうとする相対主義的な態度がともなっている.(p.42)※ボールド三中

――ホワイトが言うように,〈物語〉が“衝動的”かつ“魅力的”な本性を持つことは認めたとしても,歴史叙述が「史料(データ)」から課される制約から解放されてよいという口実にはならない.そんなんじゃ,ダメですよ.少なくともぼくはそう思う.

◇午後も書庫で〈紙魚〉になりきる――ああ,快適.

◇〈お座敷〉の予定――千葉大学理学部から来年度の出撃要請が.「動物系統学II」の非常勤集中講義(15時間).即OKっす.※ほんま,お声がかかるうちが〈華〉やねんでー.

◇「もの研究会」の佐藤啓介さんからレス――もの研会員へのメール転載とともに,興味深い追加コメントあり.考古学がなぜ生物分類学に関心を寄せるのかについては短くない歴史的経緯があるとのこと.とりわけ,考古学における〈typology=型式学〉の祖とされる Oscar Montelius の著書『Die alteren Kulturperioden im Orient und in Europa, Band 1: Die Methode』(1903,Stockholm:邦訳『考古学研究法』,雄山閣出版,1992年)には,生物分類学における種概念をモデルとして考古学における分類を組み立てようとする基本姿勢とともに,その発展過程を系譜学的にとらえる視点もはっきりと現われているそうだ.とすると,〈分類〉と〈系統〉という図式が考古学でもパラレルに再現されることになる.置かれた時代背景と地理的位置から考えて,MonteliusはErnst HaeckelあるいはAugust Schleicherの影響を強く受けていると予想される.あるいは,ほぼ同時代の北欧の民俗学者 Karle Krohn とも関わってくるのかな.いずれにせよ,遺跡史料の分類のみならず系統も視野に入っているとなると,生物体系学の議論がある程度まで〈移植〉できるような気はする.

◇ということで,体系学における【種】論議や生物学哲学っぽい【個体性】がらみの書評類をまとめて公開した――

――ふう〜っ,と一息ついたところに現代新書編集部から督促メール:「月末までに年貢を納めていただきましょう」.ひーー,お代官さまぁ,そりゃキビシイですぜー.

◇本日の総歩数=11980歩.


20 november 2003(木)

◇昨夜は星も見えたが,明け方になってぽつぽつと降り始めた.明るくなる頃にはやや本降り.

◇〈Res:もの研究会〉の世話人をされている佐藤啓介さんから連絡あり――大賀克彦氏の講演に対するEVOLVEへの投稿(昨日の日録に書いたこと)を〈もの研〉会員に周知したいとのこと.もちろんOKした.

◇【物語り】という表現――近年の歴史学でよく使われるようになった〈物語り(narrative)〉という言い方(訳語か?)には違和感があります.Hayden Whiteの『Metahistory』(1973)の遺産かとも思うが,「レトリックがすべて」という姿勢がありありと見えてとても気持ち悪い.系統学でも〈historical narrative〉という言い方をするが,それを〈歴史物語〉と訳すのかな(「イソップ物語」じゃあるまいし).そういう理由があって,ぼくは「narrative」という言葉はすべて〈叙述〉と置き換えています.もちろん,根本的解決でないのはわかっているが,少なくとも日本語の「物語り」という言い方よりははるかにマシだろうと思うから.個人的にギンズブルグに肩入れしているからには当然の選択でしょう.※ずいぶん前に『Metahistory』が翻訳されるという話をどこかで見た記憶がある.大著なのでボツになったのか....大きな本を訳すというのは,訳者にとっても出版社にとってもリスクが大きい.

◇久保せんせの〈統計学高座〉第2席:「統計モデリングと推定を重視してみる」資料(pdf)をダウンロード.おお,世界制覇を目指すglmですな! 背後にはデーモン最尤法があ.

やってきた本たち――柴田武他『ことばの意味3』(2003年10月10日刊行,平凡社ライブラリー481,ISBN: 4-582-76481-9)と殿塚孝昌『ウミウシガイドブック3:バリとインドネシアの海から』(2003年8月20日刊行,阪急コミュニケーションズ,ISBN: 4-484-03409-3).『ことばの意味3』はシリーズ最終巻.季節はずれっぽい『ウミウシ3』は衝動買い(とはいえ1と2はすでにもっているので確信犯か).元のTBSブリタニカから今の阪急コミュニケーションズに丸投げされてからも,この「ガイドブック」シリーズは順調に出ているようだ(合計で20冊近くある).カラー写真印刷が(極度に)インプレッシヴなのが売り物だと思う.個人的にはこの『ウミウシ』シリーズと『エビ・カニ』シリーズがカラフルで好ましい.『ナマコ』はちょっと...(グロい).次に手が出そうなのは『エビ・カニガイドブック2』かな.でも,『幼魚ガイドブック』も捨てがたい魅力が...(←『幼女ガイドブック』とちゃうしね,読み違えないよーに.クギ).

◇〈書評反響度〉続き――やっぱり「比率表示」ではなく「実数表示」がいいという声あり.たとえ比率が同じであっても,「5/10」と「50/100」では,書評者の心情面だけでなく,広告効果の上でも大きなちがいがあると思う.もちろん,投票実験をしてみれば,比率の変化から実数を割り出すことは不可能ではない.たとえば,ぼくが書評を書いたブーヴレス『アナロジーの罠』のbk1書評でやった実験はというと:11月19日時点での書評反響度が37.5%(なんでこんなに低いねん!ぷん――という文句はこっちに置いといて...)であることを確認後,Yesに1票を投じたところ翌日には39.4%に上昇していました.この変化を拠り所にして実数を計算すると,19日の時点で「32人中12人がYesを投票」という推測ができます.※もっともこんなことに時間かける間があったら,もっとはしはし仕事しなさいという声もなきにしもあらず...なのだが.

◇うむ,確かに「物語」でも「叙述」でも変わりがないといえばその通りなのですが,ここんとこ「物語」って言われるとなにかしら特別な意味合いがこめられているケースが少なくないでしょう.まあ,〈sensu Hayden White〉って明示されていればそれはそれでいいのですが,七変化で使ったりされるともうどーしようもない.困ってしまう./認知心理的な基盤が〈human universals〉であるというのは,ぼくが知っているのは民俗分類での通文化比較のデータですね.個々の社会ごとに決まっている部分があるのは当然でしょうが,それだけで説明しきれない普遍的要素が分類にはついてまわると考えています――のぞみさんへのリプライ(情報感謝です).※え,「社会」の意味がちがってました? こういう文脈での社会と言えばてっきり「文化人類学的な意味での社会」みたいなものを想定していたのですがね.

◇ネイチャー・プロ編集室『音のことのは』(幻冬社)が出た――これまたカラー写真集(画文集か?)「ことのは」シリーズ4冊目の新刊.やっぱ,これ系の本て売れてるんやね.かつての保育社「カラーブックス」シリーズは小学生の頃から集めていたけど,その延長線上にあるのか.

◇ヘイドン・ホワイト『物語と歴史』(2001年12月10日刊行,《リキエスタ》の会,ISBN: 4-88752-132-4)読了――ギンズブルグが異論を唱えるのも無理ないよなあ.これじゃあ.

◇本日の総歩数=9459歩.


19 november 2003(水)

◇下り坂の天気.寒くない.小学生の長男が鎌倉への修学旅行ということで,午前6時半に学校の集合場所へ叩き出す.

◇昨日たまたま遭遇したページ――「2003/10/12開催・第5回Res:もの研究会」での講演記録:大賀克彦〈「起源」の a priori〉.考古学が専門と思われる演者は,個体を出発点として,その分類体系への組み上げを,日常的個体からつくられる‘カテゴリーI’(「無限個の個体を構成要素とする分類単位」),経験科学的個体からつくられる‘カテゴリーII’(「複数であるが有限個の個体を構成要素とする分類単位」),そして仮分類としての‘カテゴリー0’(=前段階的な日常分節行為でつくられるあいまいな群)という三つのレベルで論議している.引っかかる点がいくつもある――

  • 唯名論といえども、通常「個体」の実在性は認めているからである”――演者は基本的にクリプキの立場に依拠しつつ個体が「ある」ことを前提に論議を進めているようだ.しかし,そういう本質主義的なスタンスで個体の論議がかわせるとは思えない.この講演のテーマとなっている〈起源〉の問題を論じるとき,クリプキ的スタンスでは躓くのではないか.どのようにしてその「個体」は生まれ出てきたのだろうかという問題は,けっして「ア・プリオリ」に解かれるべきではないと考える.

  • 個体性のレベルは、通常、無自覚的な社会的約定として決定されている”――何が個体(個物)であるかの判断は認知的であり,ユニークに決まるわけではない.演者はそれを「社会的約定」と言うが,それ以前に認知心理的に制約されることをまず考えてみるべきだろう.演者は個体が社会的な規約として定められているのだから,不都合な個体はベターなものに置換すればいいと言う.しかし,その個体が認知的に認められている〈natural kinds〉であるとき,そういう置換はきしみを生む.リクツではわかっていても,ホンネではそうしたくないという感覚が残されるということ.演者は,カテゴリーIの代替置換物として,「科学的分類学」に基づくカテゴリーIIを念頭に置いているようだが,分類学そのものが認知心理的基盤の上に築かれている以上,代替の役割は果たしえないのではないかと考える.

  • カテゴリー 0 に帰属する分類単位としては、我々の使用する日常言語が示す分節構造が第一の候補となる”――ぼくの理解が正しければ,カテゴリー0の群というのはもっとも直接的な認知心理カテゴリー化の産物ということになるだろう.とすると,演者のいうカテゴリー0は〈natural kinds〉であるか否かという区別をまず行なう必要があるだろう.カテゴリー0/I/IIは推移的な階層ではなく,もしかしたら緊張をもたらしつつも同時共存的なものかもしれない.

  • 個体を出発点とする現在の我々の認識において、個体は端的に起源である。すなわち、起源は a priori であるということができる。ただし、素朴な意味での a priori ではなく、規約としての a priori である。”――もし「分類だけ」が目的であれば個体の起源が先験的ですむ話かもしれない.しかし,少なくとも生物の場合は分類の対象となる個体(そんなものがあるとして)には進化的系譜がある.いったん「系統」を考え出すならば,それまでの分類学が依拠してきた無意識の形而上学なり本質主義なりは強く揺さぶられるのではないか.もちろん,心理的本質主義者たるヒトが「転向」ないし「改宗」することはありえないわけだが.

  • [クリプキの]指示の理論と、例えば生物学における系統分類等とは、認識論として基本形と応用形の関係にあり”――【種(species)】をめぐる体系学での論議でソール・クリプキの本質主義的立場が登場したことは事実だが,それを「系統」と絡めるのは無理がある.というか,どのようにして「起源」の先験性(演者のいうような)と,系統学が考えている意味での系統進化を折り合わせようとするのかがぼくには理解できない.系統の立場から言えば,認知的な「個体」の境界は時空的に融けていくかもしれないのに.

――哲学の立場からはさらに別の異論が出てくるのかもしれないが,上では分類学ないし系統学からのコメントを書いた.演者は生物学との関連性を意識しているように見受けられる.考古学からのこういう発言はこれまでほとんど遭遇したことがなかったので,その点は興味深かった.上のコメントはEVOLVE送りとしよう(島送りみたい...).

◇書評の〈販促効果〉ってどのように現われてくるのでしょうね.書評なしの新刊アナウンスだけでも十分にプッシュできる客層があるのは確かです.そのときはアナウンスとお買い上げ実績とがタイムラグなく相関するはず.一方,模様眺めな客層が書評を待っているのかな.bk1に投げたぼくの書評への〈反響度〉をときどきチェックしているのですが,書評を読んだ反応がよく見える本もあればそうでないのもある.bk1の書評反響度の表示システムは,現行の「%比率表示」ではなく,できればアマゾンのように「◇人中◆人」という実数表示が望ましいだろう.※〈みだりに比率に変換すべからず〉という統計学の鉄則はここでも通用するのだ.

◇ううむぅ,本命仕事〈その1〉に苦しむ――培風館『植物育種学辞典』の項目執筆.統計学関連項目:クラスター分析・樹形図・主成分分析・因子分析・共分散・多変量解析・多変量分散分析.字数は主成分分析の600字以外はいずれも300字.多変量解析を300字以内で説明かぁ.難行苦行や.ま,とりあえず軽〜くジャブをくり出すということで....※おいっ,ラウンド開始早々ダウンするなーっ.

◇『イシ:北米最後の野生インディアン』読了――いろいろと新たなつながりが見つかる.北米インディアン諸語の専門家エドワード・サピアの著書『言語:ことばの研究序説』(1998年11月16日刊行,岩波文庫・青686-1,ISBN: 4-00-336861-4)には,ヤナ語に関する言及が方々にあるが,そのインフォーマントは他ならないイシだったということ.サピアもまたボアズの弟子で,カリフォルニア大学時代の上司がアルフレッド・クローバーとのこと.イシの晩年にヤナ語・ヤヒ語の聴きとりと録音を行なったそうだ.三省堂『言語学大辞典』の該当項目でも,サピアの論文が多く参照されている./『イシ』では,ニューヨークに連れ帰られたイヌイットのミニックたちにも触れている(pp.360-1).“病原菌”が彼ら先住民に同一の運命をもたらしたというくだりで.ミニックのその後の人生については,執筆の時点ではわかっていなかったのかな./クローバー夫妻の息子ふたりは現役の歴史学者だが,今年7月に『イシ』の続編にあたる著作を出版している.流れが連綿と続いているようだ.

◇都立大学理学部の来年度の非常勤出講(生物統計学)が確定した.今年と同じく30時間の予定.南大沢はとってもたいへんらしい.

◇〈ぐれる〉の語源は〈ぐれはま〉つまり蛤の殻がずれることから派生したことばだと,東大オケ打族OBの佐々木文彦くんがブラウン管の中で説明していた(【68へぇ】)――との速報が東大オケ打族メーリングリストから流れてきた.へぇ〜,へぇ〜,へぇ〜.

◇本日の総歩数=8400歩.


18 november 2003(火)

◇未明の最低気温0.9度――車のフロントガラスに霜が降りていた.放射冷却というやつか.日の出もじわじわと遅くなってきた.

◇〈こういう話,どこかで聞いたことがあるなあ〉の続き――先住民が強制的に移住させられた土地で病気にかかって死んでいくという史実と先住民が博物館などで生きたまま(死んでからも)陳列されていたという史実は,イシだけに限らず,その時代には珍しいことではなかったのだろう.イシのケースとごく類似するのは,ケン・ハーパー著『父さんのからだを返して』に描かれたイヌイット父子の実話.これまたフランツ・ボアズの命を受けた北極探検隊長が連れ帰ってきたミニックたちイヌイットたちは,ボアズの本拠地であるアメリカ自然史博物館で「生きたまま陳列」された.そして,彼らがほどなく呼吸器系疾患でばたばたと斃れていくという過程は,同じくカリフォルニアの博物館で「暮らした」イシが5年後に結核で命を落としたという運命を暗示する.それにしても,ボアズって....

◇ビーグル号でダーウィンと同乗した南米フェゴ島人ジェミー・バトンのケースもよく似ている.Nick Hazlewood著『Savage』に描かれているフェゴ島民の滅亡プロセス(=侵攻してきたアルゼンチン軍がもちこんだ〈はしか〉の感染で衰滅)は,おそらく世界の各地で繰り返されたのだろう.ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』のいう〈病原菌〉の威力はとりわけ強力だったということ.

◇昼休み,木枯らし吹かず天気がよかったので,少しお散歩を4kmほど.落ち葉の季節もそろそろ終わり.午後,所内の払い出しで白菜2玉をもらう(重っ).ついでに,年末調整の書類を書いてみたりして.

◇久保せんせの〈統計学高座〉がいよいよはじまった――第1回講義「〔検定〕の使われかたを観察しよう」の講義資料をダウンロードさせていただきました.感謝.打倒!“ゆーい差決戦主義”って?

◇若手にしろ年長者にしろ,どこかに隔離して「統計洗脳」するのはたいへん効果的だと思います.隔離するというのがポイント.1〜2週間ほど「日常」から切り離して,朝から晩まで〈統計漬け〉&〈漬け〉すれば,それはそれはいい漬かり具合になるでしょう.社会復帰した後もその効果は薄れないと思います.在家のままではダメで,なんとしても出家させる必要がありますよ.

◇本日の総歩数=14291歩.


17 november 2003(月)

◇今週は【滞貨一掃週間】ということで,がんばります.いろいろと.ホンマ.まずはアレとソレ,あ,コレも.朝から風が強いなと思ったら〈木枯らし一番〉とのこと.微温風が吹き抜けている.

◇ランドル・ケインズ著『ダーウィンと家族の絆:長女アニーとその早すぎる死が進化論を生んだ』(渡辺政隆訳,白日社,近刊→原著)の予告がきょうbk1に載った.詳細目次とともに訳者のメッセージも掲載されている.届くまでもう少し首を伸ばしてみましょ.

◇『メアリー・アニングの冒険:恐竜学をひらいた女化石屋』の書評を仕上げて,EVOLVEに配信する.これは「滞貨」ではない.さて,いよいよ本命か.いったいどれが本命かというキビシイことにもなっていたりする(参った〜).

◇『イシ:北米最後の野生インディアン』の序文を斜め読みする――

  • 彼がサンフランシスコの人類学博物館で暮らした五年間,イシは有名人であり,いわば観光客が見物に来る天然記念物のようなものであった.(pp.vi-vii)

  • ナチによるユダヤ人大量殺戮にも等しいインディアン撲滅の生き残りであるイシは,父[アルフレッド・クローバー]の親しい友人かつ教師になった.それなのに,僅か五年後に結核――これまた白人からインディアンへの死の贈物である――で死亡する.(pp.vii-viii)

――こういう話,どこかで聞いたことがあるなあ.

◇本日の総歩数=7509歩.


16 november 2003(日)

◇すかっと晴れたか――と思いきや,この暑さはいったい何なのさ! 日射しがとても強く,半袖でもいいくらい.20度を越えたなと感じたが,実は「夏日」だったことをあとで知る.寒かったり暑かったり,まったくもうっ.

◇『メアリー・アニングの冒険:恐竜学をひらいた女化石屋』読了――断片的にしか残されていない資料をうまくつなぎ合わせて,忘れられた“化石婦人”の伝記ストーリーを書き上げた本だ.何よりも,メアリーだけなく,19世紀前半のイギリス科学界で活躍しながら公的には認められることがなかった「女性科学者群像」がリアルに描き出されていると感じた.女性どうしの個人的なネットワークが次々に広がっていくようすが見えてくる.男性紳士科学者たちとは別のところで女性たちによる科学コミュニティがあったということか.本書全体の中でも,とりわけ著者たちのまなざしが強く感じられるところだ.

◇通読して,いくつか感想をば――『メアリー・アニングの冒険』の舞台は,ダーウィン進化論の大波が来る前のイギリス南端の海岸Lyme Regis――著者たちはメアリーの一生が埋めこまれたこの地にまで足を運び,細かい未公刊資料や書簡,新聞記事,散在するメモの類いまで渉猟して調べあげたそうだ.幸運な偶然があったことも文中に綴られているが,著者たちのアンテナの感度が高かったからこそだと思う.脇役となる登場人物の役回りについて:俗物マーチソン,奥方の「内助の功」ありまくりですな(というか事実上のマリオネットかも).デ・ラ・ビーチ,とってもいいヤツじゃないか(‘De la Beche’のよくある仏語読みはマチガイだったのね).1830〜40年代のデボン紀論争を叙述したMartin Rudwickの大著『The Great Devonian Controversy』(1985)での主役を張るこのふたりが,若い頃にメアリー・アニングとの交差があったとは.学生たちに大受けした大道芸人バックランドも,その晩年は不幸だったと聞いている.

◇それにしても,主役たる化石婦人メアリー・アニングの活躍ぶりは只者ではない.危険この上ない発掘場所(「ブラック・ヴェン」)で,崖崩れと満潮の危険にさらされながら,イクチオサウルスやプレシオサウルスをはじめ数々の大物化石を次々と掘り出せたのは,化石屋としての熟練した職人技があってはじめて可能だったのだろう.長らく忘れられていた人物の「甦り」を目指す初の伝記ともなれば,現存する情報をつなぎ合わせる〈糊=推測〉がどうしても必要になる.確かに,わからないことはわからないのだが,全体を通して説得的な「叙述」(あえて「物語」とは呼ばない)に仕上がっていると感じる.メアリー・アニングを美化することなく,等身大の女性として当時のイギリスの社会と文化の中に占めた位置を明らかにしようとした本書は,メアリーをめぐる通説を否定する新たな情報も盛り込まれており,読後充実感のある伝記だと思う.欲を言えば「注」は巻末ではなく該当ページに割り振った方が読みやすかっただろう.

◇Rudwickのデボン紀論争本は,そのうち読もうと思いつつ結局まだ登攀しきっていない.1830〜40年代に演じられた「デボン紀論争」の配役が男性紳士地質学者のみであったのに対し,『メアリー・アニングの冒険』では当時としては周縁的な女性たちが主役級の演技をしている.その対比もまたこの本を読む愉しみを増してくれるだろう.そして,Rudwickの本が最後(Chapter 15)に提示した論争全体の【シェマ】に相当する個別的知識の形成過程に関する復元像がメアリー・アニングの場合にも可能ではないかと考えてみたくなる.

◇本日の総歩数=3160歩.


15 november 2003(土)

◇雲が多い,安定しない空模様.安心してふとんが干せない.

シオドーラ・クローバー『イシ:北米最後の野生インディアン』(2003年11月14日刊行,岩波現代文庫S85,ISBN: 4-00-603085-1)入手――原書は1961年出版.訳本は1970年に初版が出て,1991年に「同時代ライブラリー」に入ったことがある.今回は文庫として復刻された.著者の人脈は意外.亡夫は文化人類学者アルフレッド・クローバー,序文を寄せた娘は『ゲド戦記』の著者アーシュラ・ル=グウィンだそうな(でもオビにわざわざ載せるようなことではないぞ).カリフォルニアにいたヤヒ族インディアンの最後のひとりだったイシについてのレポート.‘突然死’による言語絶滅の典型例(話者コミュニティの虐殺による絶滅)としても語り伝えられている(→『消えゆく言語たち』の表紙を飾る男性がイシだ).

◇アルフレッド・クローバーはアメリカ文化人類学の帝王だったフランツ・ボアズの弟子にあたる.ボアズは「絶滅危惧インディアンの記録」というプロジェクトを1900年代はじめに立ち上げ,クローバーはその意を受けて,カリフォルニアのインディアン居住区に向かったという.ヤヒ語の最後の話者であるイシと遭遇したのもその頃のことだろう.

◇ついでに,Douglas Coleのフランツ・ボアズ伝『Franz Boas: The Early Years, 1858-1906』の書評を公開する.著者が急逝しなければ,ボアズの後半生の伝記もきっと書かれていただろう.

◇小熊英二『清水幾太郎:ある戦後知識人の軌跡』が出版されたそうだ(神奈川大学評論ブックレット26, ISBN: 4-275-00302-0).96ページとは! 電話帳『〈民主〉と〈愛国〉』の1/10ではないか.こういう薄い本も書けるんだ(へぇ〜).

◇さくさくと新刊チェック完了→TRC週間新刊リスト1349号からの私的セレクション

◇本日の総歩数=3481歩.


14 november 2003(金)

◇未明の最低気温は〈4.8度〉.いきなりこれだもんねえ.寒いはずだよねえ.心の準備,追いつかず.でも,すきっと秋晴れ.

◇山内昌之『歴史の作法:人間・社会・国家』読了.後半の章はウンチク垂れまくりでつまんない.前半がいいですね――

  • 私が本書で示そうとした〈歴史の作法〉は,「ナレーション〔叙述の作業〕とドキュメンテーション〔資料的裏づけの作業〕との緊張関係をそのまま研究の現場に持ち運んでこよう」というカルロ・ギンズブルグ(1939〜)の問題意識から遠くないのかもしれません.(p.16)
  • フィクション作家が人物はおろか事件さえ自由に「創造」できるのに,歴史家は資料に「束縛」されているのです.それでも,歴史家は史料の取り扱い方,史料の提示と説明にあたって想像力を必要とすることは歴史の本性に関わっています.こうした一連の作業や営みを〈歴史の作法〉と名づけたいのです.(pp.17-18)
――というようなくだりを読むと,著者の基本的な姿勢がわかります(同意しつつ→次はやはりギンズブルグの新刊か...).ひとつ収穫だったのは,イブン・ハルドゥーンの『歴史序説』(岩波文庫・全4巻)に導かれたこと.イスラムの歴史・系図への関心の度合はただごとではないからね.

窮鼠猫を噛む,とちごてぇ,原稿書いてます.かりかり....

◇その合間にも本は届く――グールド『がんばれカミナリ竜:進化生物学と去りゆく生きものたち(上・下)』(1995年10月31日刊行,早川書房).「訳者あとがき」をまず眺めてみたりする――確かにねえ,グールドのエッセイは訳者泣かせだよねえ.第1パラグラフで()つまずいてしまうことが多いからね.あ,廣野さん,内幕バラシやあ.グールド翻訳のぶっちぎりリピーターが訳師さまこと渡辺政隆さんなのは事実ですね.訳師さま以外に「グールド翻訳リピーター」がいないというのは,「1回で懲りた」という理由もチラッとはあるけど(告白),それ以上に他にやるべき仕事が出てきたということの方が理由としては大きいかな.

◇ぼくだって大学院を出てふら〜っとしていた時期だったから,集中して『ニワトリの歯』(原著1983年,翻訳1988年)の翻訳に取りかかれたのだと思う.訳師さまと同じ研究室で机を並べていて,廣野さんも参加していた「生態学勉強会」にも入っていたという経緯があって,『ニワトリの歯』の翻訳プロジェクトに加わることになった(最初の構想では樋口広芳さんも訳者陣営に加わるはずだった).うん,確かに勉強になるけど,エンジョイする余裕はなくなるね(翻訳していて炎上することはあっても).最新刊である『ダ・ヴィンチの二枚貝』まで,訳されたエッセイ集(Natural History誌初出のもの)は計8冊,訳本では16冊にのぼる.残る2冊が訳されるとすると全部で20冊――本棚一列が埋まってしまうほどのとんでもない分量だ.

最後のエッセイ集『I Have Landed』をいまめくっている.おお,闘争的ダーウィニスト Edwin Ray Lankester がカール・マルクスの葬儀に参列したときの写真が載ってる(p.114).いつものことながら,エッセイのネタを最初に提示するときのグールドのわざはみごとだと思う.また続きを読もうかな――などと現実逃避している場合ではないのだけれど.ヨコに本があれば,つい手が伸びるのは矯正不能の病気だと思う.

◇本日の総歩数=7317歩.


13 november 2003(木)

◇空がとっても不安定――晴れては曇り,ぱらついては日が射す.寒くて暖かく,乾いては濡れる.

◇ごめんなさいごめんなさい,仕事しますしますぅ〜.

届いた本たち――高橋康也『ヴィクトリア朝のアリスたち:ルイス・キャロル写真集』(2003年11月15日刊行,新書館,ISBN: 4-403-01042-3)とジョアナ・ストラットン『パイオニア・ウーマン:女たちの西部開拓史』(2003年11月10日刊行,講談社学術文庫1626,ISBN: 4-06-159626-8).いずれも1988年に出た本の再刊.何でまた「19世紀の女性もの」ばっかり2冊も./グールド『八匹の子豚:種の絶滅と進化をめぐる省察』(1996年9月30日刊行,早川書房)(上・下)も間髪入れずに到着.

◇『ヴィクトリア朝の〜』は即読了.ルイス・キャロルの〈少女趣味〉は徹底しているねー(ほれ,ハーマイオニー大好きなそこのお兄さん,この本いいよお〜).ダーウィン家のアニーちゃんが1849年に撮られたのは〈ダゲレオタイプ〉の銅板写真.一方,キャロルが1850年代以降に撮った少女写真は〈アンブロタイプ〉のガラス板写真.少し年代がずれるだけでもう写真技術が変遷している.キャロルのモデル少女たちはモノクロの世界で動いて?いるのだが,最後の数ページはヴィクトリアン・ロンドンの【闇】だね.ホント.

◇EVOLVEでなお続く〈働かない働きアリ〉スレッド――複数レベル淘汰(multilevel selection)の仮説を自然淘汰に関する統計モデルとして定式化しようとするとき,「個体」とか「群」は統計学的な意味での〈処理効果〉と同じになる(個体効果とか群効果).だから,それらの存在論的な地位はここでの問題ではなく,むしろ「説明上,それらの効果が要請されるかどうか」だけがポイントになる.ここでいう〈効果〉という表現は,共通要因説明(CC explanation→Soberの本)での〈共通要因〉に相当するもので,それを想定することにより現象がより単純に説明できるという経験的な裏付け(サポート)があってはじめて表舞台で論じることができる性質のもの.

◇一般の統計モデルでもそうだと思うが,ある要因効果を想定するのは,それが〈個別要因=誤差効果〉ではとらえきれない変動の構造を〈共通要因=処理効果〉としてすくい上げてくれるという期待があるからだと思う.もちろん,心理的本質主義者たる人間はそういう共通要因は「ある」と思いがちだ(たとえ「ない」場合でも),だから,たとえば統計的検定を通じて,われわれが犯しやすいこのタイプ1過誤をコントロールしようとする.

◇検定を通じて「効果あり」と判定されたとしても,それが「個体」とか「群」が〈ある!〉という存在論的主張に結びつくわけではない.数ある対立モデルの中から,たまたま現在のデータのもとで選ばれただけという暫定性は,そのモデルに含まれる要因(個体効果とか群効果)の〈実体化〉すなわち〈reify〉を許すものではない.統計学的につくられた構築物(上の例だと「要因効果」,他には「主成分」,「正準変量」,「クラスター」などなど)の〈reification〉に対する警戒は,それらの統計学の出力結果を解釈するときの基本的心構えだと思う.グールドが『人間の測りまちがい』の中で,繰り返し〈reification〉への警告を発していたことを思い出すべきだろう.グールドは,知能テストの因子分析によって得られた「因子軸」を一般知能因子[g]のようなかたちで安易に〈reify〉してしまったことが,その後に禍根を残した原因のひとつだと書いている.

◇同じことが,複数レベル淘汰仮説についてもいえるだろう.データによって裏付けられた共通要因としての「個体」や「群」は,それだけでは特定の〈階層〉のランクやその要素の「実在性」を支持する論拠には用いられない.むしろ,そういう既存の存在論的枠組みを外し,しかも個体以外の淘汰単位をも想定しようという「きわどい道」を選んだのが複数レベル淘汰理論なのだろう.だからこそ,モデル選択の後の「解釈」すなわち生物学的な意味づけが次の課題として浮上してくる.社会性昆虫の‘コロニー’のような,直感的にも理解しやすい「群」が共通要因としての「群」と対応づけられればハッピーになれるかもしれないが,そういうシンプルなケースばかりではないのだろう.

◇本日の総歩数=9535歩.


12 november 2003(水)

◇雨降り続く.関節によくなさそう...(ぼくには影響ないけど).

◇少しだけばらけてみたい時にはエリック・サティをどーぞ――〈冷たい小品集:逃げ出したくなる3つの歌〉なんていかがでしょうか.お茶目な〈ピカデリー〉もいいですねー.アルド・チッコリーニの「サティ・ピアノ音楽全集」を引っ張り出してみる.

◇中澤港さんの「メモ」から,東京大学理学部生物情報科学科での集中講義資料が公開されていることを知る(→数理統計学ゲノムサイエンス).いずれもpdfファイルとしてオンライン公開されている(元はPowerPointファイルなのだろう).数理統計学の講義資料をダウンロード.大橋靖雄さんらが講師.統計の基礎的な理論から始まって,線形統計学・最尤法・ベイズ法までカバーしている(マイクロアレイデータの統計処理もある).たとえ自分ではその場に居合わせられない講義であっても,資料が公開されているだけで十分にinformativeだと思う.BIOMETRYとEVOLVEには通知しておくことにしよう.

◇午前8時には前線がなくなり,一転して秋晴れに.試しに〈Google Deskbar〉をインストールしてみる.出力窓がコンパクトでなかなか快適かも.

◇「働かない働きアリ」の続き――EVOLVEでのスレッド.壇上デビルマンの話だと,働かないという形質に対する複数レベル淘汰による説明を考えているとのこと.とすると,その形質に対してどのレベルの「群」を想定するかが重要になるだろう.Sober & Wilson(1998)の『Unto Others』での論議が当てはまる.本書以降,この話題はどのように進展しているのだろうか.先駆的なSober(1984)の『The Nature of Selection』が出版されてもう20年になる.この本は万難を排してでも訳されるべきだったと今にして思う.

◇久しぶりに昼休みウォーキングしましょ――4kmほど完歩.さらに深まる秋って感じ(もう冬か).

◇来年1月31日に東京芸術劇場である東大オケの定期演奏会は〈ボロディン「イーゴリ公」序曲/コダーイ「孔雀」変奏曲/ラフマニノフ交響曲2番〉とのこと.全曲‘初物’だそうな.コダーイ,ほほー.ラフマニノフ,燃えてください(>打族).

◇本日の総歩数=14841歩.※トツジョとして歩き出す...(トツジョとして働けって?).


11 november 2003(火)

◇今日も雨.昨日の最高気温は15度に達しなかったとか.つい先日まで,あんなにぽかぽかしていたのに.

◇オンライン古書店で早朝のお買いあげ――グールド『八匹の子豚』と『がんばれカミナリ竜』(それぞれ上下2巻ずつ).原書があると訳本をうっかり買い忘れてしまう.子豚ちゃんとカミナリ竜くん,ごめんなさいね.早川書房から出ているグールドの初期エッセイ集のハードカバー版は,そろそろ品切れになりつつあるようだ.おいおい文庫化されるとは思うけど.『ワンダフル・ライフ』のハードカバー版も誰かに貸したままなのか,ここ数年見当たらない(文庫版はあるけど).まだあと2冊の未訳エッセイ集が残っているので,この機会にコンプリートにしておかないと.日本語訳されていないグールドの3冊の写真集『Illuminations』(1986),『Finders Keepers』(1992)そして『Crossing Over』(2000)も,最後の1冊以外は品切れみたいですけど,オンライン古書店にはまだたくさん流通しています――先ほど一括注文完了.

◇Janet Browneのダーウィン伝の下巻『Charles Darwin: The Power of Place』がペーパーバック版として今月出版されるとのこと.上巻『Charles Darwin: Voyaging』もすでにペーパーバックになっている.上下巻あわせて1200ページ.最近,読書態度が〈大食い大会〉化しているよーな気がする.書く方も書く方だけど,読む方も読む方ですな,まったく.

◇『変異するダーウィニズム:進化論と社会』の書評を書き上げる――EVOLVE / Darwin に流し,短縮版をbk1に送る.今月の担当書評はこれにておしまい→bk1掲載書評

ブレイン南部さんより直に進言――そーでしたか,〈natural kind〉を〈自然〉と訳すのは御法度なんですね? かといって,これまでのように〈自然〉と訳されると血圧がぐわっと上がりそうだし....困ったなー.ついでに,〈sortal〉の訳語もなんとかしないと.既存の訳語はダメダメだったので,〈群種〉とか適当な訳語をかつてひねり出したことがありますが,とっても悩ましいっす.

◇Jean Baptiste Lamarckの著作・論文・手稿などを電子化するというサイトを教えてもらった.有名な『動物哲学』(1809年)をはじめ『無脊椎動物の博物誌』(1815-22年,全7巻)など,ラマルクの残した多くの著作がオンライン公開されつつある.

◇関川夏央・谷口ジロー『“坊っちゃん”の時代』の第5巻「不機嫌亭漱石」(1997)を読了.再び漱石を中心に筋立てがつくられている.わー,虚無的だなあ.夢か現か幻かっていう感じ.これで全巻読破.10年かかったプロジェクトであることを痛感する.こういう漫画を載せていた『アクション』は大した雑誌だったねー.

◇本日の総歩数=7138歩.


10 november 2003(月)

◇未明から冷たい雨.やっと平年並みの気温か.低温高湿度は身に堪える.

〈アニーちゃんの文箱〉はやっと届きそうです――姉御からのウラ情報によると,Randal Keynes著『Annie's Box: Charles Darwin, his Daughter and Human Evolution』の翻訳『ダーウィンと家族の絆』は,今月末に12月上旬に白日社から出版されるとのこと(書店配本は来月半ばとか).訳者はもちろん訳師さま.楽しみにしています.本書は,わずか10歳で死んだダーウィンの愛娘アニーが父親に残した跡をたどった伝記.アニーの死因は当時流行っていた〈粟粒性結核〉だろうと推定されている.ついでに「結核本」2冊の書評をアップ→福田眞人の『結核の文化史:近代日本における病のイメージ』と『結核という文化:病の比較文化史』.ハンセン病は文学を産み,結核は文化を生んだということか.もちろんペストもか.

◇『Trends in Ecology Evolution』の最新号(Vol.18, No.11, 2003)に,Semple and Steel(2003)『Phylogenetics』の書評が載っている(Ziheng Yang, pp.558-9).「数学ではあっても統計学ではない」――確かにこの本の中心は離散数学であって,統計学はその裾野に見えてくる〈遠景〉だろう.それでいいのではないか.系統学としての統計学は離散数学をベースにせざるをえないはずだから.話の筋立てとしては,まずこの『Phylogenetics』から入って,必要に応じてFelsenstein(2003)『Inferring Phylogenies』に進めばいいと思う.

のぞみさんから「三中さんの言う同一性とは自然類条件を満たす同値性ではないのか」という質問が――むしろ,逆ですね.自然類という認知的制約条件を科した時点で,同値類の論議は形而上学的な同一性の論議に変身するということでしょう.同値類「a≡b(mod f)」の条件〈f〉が自然類というsortalであるとしたら,aとbとは「同一である」ということ.形而上学での同一性の論議はこの〈f〉をどのように定義するのかを論じてきたのだとぼくは理解しています.「(∃f)[a≡b(mod f)]」というだけでは不十分で(同値類でしたらこういう緩い条件でも大丈夫でしょう),ある特定のタイプの〈f〉が必要になります.一般的な同値類の理論は,どのような〈f〉についても成立する性質をベースにした立論であるとぼくは考えているので,「同値性」はそのままでは「同一性」の議論に寄与できないと思います.しかし,もし同値類の理論がそういう存在論的なテーマをも論じようというのであれば,その時点で同一性(自然類ないしsortal)の形而上学に足を(深く)突っ込んでいるんじゃないですかね.

◇関川夏央・谷口ジロー『“坊っちゃん”の時代』の第3巻「【啄木日録】かの蒼空に」(1992)を読了.この巻の主役・石川啄木ってほとんど生活破綻者だと思う.やっぱり〈結核〉の影が色濃いな.勢いで,第4巻「明治流星雨」(1995)も読了.こちらは大逆事件に連座させられた幸徳秋水・菅野須賀子を中心とするアナーキストたちが中心.残るは第5巻のみ.

◇夕方になってまた雨脚が強くなる.本間るみ子『チーズの悦楽十二ヶ月』読了.チーズとワインとの相性話がおもしろい.寒い季節のモン・ドール,食べたいねえ.

◇本日の総歩数=9865歩.


9 november 2003(日)

◇予報通りの下り坂で,朝から曇っている.早朝に小学校校庭でPTAおやじの会主催の「熱気球教室」があった.天気次第では延期が危惧されていたのだが大丈夫そう.子どもをたたき起こして連れていく.熱気球なるものを間近に見るのは久しぶり.大きいもんですなあ.空気を吹き込んで,バーナー点火.みるみる大きくなり,浮き上がっていく.中学・高校の同級生に「日本凧の会」に入っているのがいて,日本各地の凧あげ大会はもとより,赴任先のタイでも凧あげをしていたそうな.凧男の心中が垣間見えたか.熱気球教室が終ってほどなく雨が降り出した.ラッキー.

◇関川夏央・谷口ジロー『“坊っちゃん”の時代』の第2巻「秋の舞姫」(1989)読了.この巻は森鴎外が主人公.第1巻よりもフィクション度が高いか.この分だと全5巻読破は時間の問題.その後,衆議院選挙の投票に行く.

◇今月の新刊で岩波現代文庫に入ることになったシオドーラ・クローバー著『イシ:北米最後の野生インディアン』(2003年11月14日刊行,ISBN: 4-00-603085-1)は長らく探していた本.同じ北米フィールドでは青木晴夫著『滅びゆく言葉を追って:インディアン文化への挽歌』(初版1972年→復刊:1998年1月14日刊行,岩波同時代ライブラリー331,ISBN: 4-00-260331-8)がすでにある.今年になって立て続けに出た北方少数言語に関する呉人恵著『危機言語を救え!』(大修館書店)と論集『北のことばフィールド・ノート』(北海道大学図書刊行会)も見落とせない.いずれも〈保全言語学〉と直接あるいは間接に関わる内容だ.

◇ネトル&ロメイン著『消えゆく言語たち』(→原書書評訳書書評)を読んで以来〈保全言語学〉への関心をもち続けている.それが〈保全生物学〉との並行関係にあることは明らかだが,言語学から生物学への働きかけほどには逆方向の関心は高まっていないように感じる.両分野の融合概念としての【生物言語多様性(biolinguistic diversity)】をどこまで共同戦線の〈旗〉として掲げ続けられるのかということ.

◇TRC週刊新刊リストからチェック→1348号.※今週はクリッツマン『震える山』かな.

◇本日のお買い上げ本――アリス・ウェクスラー『ウェクスラー家の選択:遺伝子診断と向き合った家族』(2003年9月25日刊行,新潮社,ISBN: 4-10-543401-2)と山内昌之『歴史の作法:人間・社会・国家』(2003年10月20日刊行,文春新書345,ISBN: 4-16-660345-0).『ウェクスラー家〜』はもう評判になっている本.『歴史の作法』はたまたま出会う.

◇本日の総歩数=3447歩.


8 november 2003(土)

◇立冬だというのに,この暖かさ.緩んだ風に吹かれてモミジ葉が舞う.

献本:吉川惣司・矢島道子著『メアリー・アニングの冒険:恐竜学をひらいた女化石屋』――どうもありがとうございます.メアリー・アニングが【フランス軍中尉の女】のモデルだとは全然知りませんでした.よく調べてあって愉しめる本だと直感する.表紙がとても印象的.ゆっくり読ませていただきます.

◇関川夏央・谷口ジロー『“坊っちゃん”の時代』の第1巻(1987)を読了.夏目漱石を中心とする巻で,なかなか美味でございます.『アクション』に連載されていた頃から知っていたが,まともに読んでいたわけではなかった.こうやって単行本として通読されるスタイルのマンガだったのかな.週刊連載のたびに読むのでは話のつながりがどうしても薄れてしまう.新聞連載小説に対してイマイチ興味が湧かないのもそういうところに原因があるのだと思う.

◇この週末にやるべき仕事がいくつかあるのだが....う〜む,困ったー.

のぞみさんからさらなる質問――ぼくが〈同値性〉ではなく〈同一性〉にこだわるのは,同一性の問題が〈自然類(natural kinds)〉の論議に直結しているからです.同値性はたかだか集合論での議論であって,形而上学や認知科学の世界に深く浸透できる性質のものではないですね.つまり,任意の擬計量によって定義できる同値類は必ずしも自然類ではないということです.「親と子は同一ではない」――まさか?親と子が「同じ種(species)」であるという論議が繰り返されてきたことを考えるなら,その主張は単純に棄却されますよ.「AとBが同一である」という言明の核心は「同一のであるのか」という点です.その「同一のなにものか」は自然類という類種(sortal)があってはじめて認知できるということ.Sortalが事前にあって,はじめて「同じ/異なる」という言明が生まれ出てくるということになるのだとぼくは考えます.もちろん,自然類を前提にした擬計量はつくれると思うし,自然類を模した同値類をつくることは可能でしょう.しかし,そのことは〈同一性〉の形而上学的論議を〈同値性〉の数学的論議によって置き換えられることを意味してはいないとぼくは考えます.

◇本日の総歩数=9195歩.


7 november 2003(金)

◇連日,最低気温が15度という暖かさ.今日も明け方は濃霧.先月の方がよっぽど寒かった.

◇Googleの〈イメージ検索〉って,けっこう愉しめるのね.「tree」とか「phylogeny」とか投げ込んでみる.お,コンピュータの系統樹(The Computer Tree)なんてえのを発見.

◇JST異分野交流フォーラム(以降「長谷川フォーラム」)のメーリングリストを開設.議事録などを流す.講師予定者への連絡>委員さん,どーぞよろしゅうに.

◇新刊情報追加――先日書いた矢島さんの新刊は,吉川惣司・矢島道子著『メアリー・アニングの冒険:恐竜学をひらいた女化石屋』(朝日選書,1400円)であることが今朝の新聞広告で判明.気になる本:『震える山:ク−ル−,食人,狂牛病』(2003年11月刊行,法政大学出版局).※ほんま,キリない.

◇More on 『変異するダーウィニズム:進化論と社会』――本全体としてはダメなのだが,章ごとにはもっとツッコメばきっとおもしろい鉱脈(泉脈)に当たったにちがいないと思われる章がある.たとえば,宇城輝人「人口とその徴候――優生学批判のために」(pp.410-451).近代統計学における個体群思考(population thinking)のあり方について論じた章.著者はおそらく誤解しているのではないか.本質主義(essentialism)に対置される個体群思考のもとでは,そもそも「ポピュレーション(人口,集団,母集団)とはなにか」とか「ポピュレーションという実在があるとして,それはどのようにすれば捉えることができるのか」(p.410)というような本質主義的な問いかけはそもそもなじまないのではないか.著者の発言を拾っていくとたいへん興味深いものがある――


進化論は種というまとまりを根本的に相対化してしまったけれども,しかし種というまとまりが存在するという直感は否定しがたい.しかも,ことがらを生物学的種に限定せず,国民や,あるいはある特定の家系といった人間にかかわる人口現象に重ねて考える場合,ますます集合的なまとまりは否定しがたく見えるだろう.そもそも「遺伝」なる現象が存在するのなら,伝達されるべき不変の同一性がなければならない.そうした同一性を通時的および共時的な変異や進化と整合的に説明しなくてはならない(p.417)

――あ〜もう実にもったいない.せっかく統計学に関わる形而上学的問題(同一性)と認知科学問題(心理的本質主義)に触りながら,続く部分での著者の論議はそのヨコを素通りしている.

のぞみさんからさっそく質問――〈同一性〉ではなく〈同値性〉の問題ではないのか?との疑問.ぼくの使っている〈同一性(identity)〉は,「存在の学」としての形而上学でふつうに用いられている意味で用いています.〈同値性(equivalence)〉という言葉は,ぼくの理解するところでは,ある同値関係によって群化された「同値類(equivalence class)」を指しています.ですから,同一でなくても同値であり得るわけですが,その逆はきっとないでしょう.同値類は要素間に適当な〈擬計量(pseudometric)〉が定義されていればいつでも導入できますよね.ぼくが言わんとしている〈同一性〉は「モノとして同じであるかどうか」ということですので,それを〈同値性〉で置き換えて論じることはできないように考えます.上で「もったいない」と感じた理由は,母集団や個体群の同一性(NOT同値性)に関わる形而上学的問題を論じるせっかくの機会を著者がむざむざ逃してしまったことに向けられています.

◇東大生協書評誌『ほん』から原稿依頼――来年1月の特集“若書き”の記事として,故グールドの初期著作を紹介してほしいとのこと.お引き受けしましょう.最初の2冊である『ダーウィン以来』と『個体発生と系統発生』をターゲットにしましょう(いずれも原書は1977年).もう1冊ということであれば,『人間の測りまちがい』(1981年)かな.いずれもグールドの執筆歴初期の記念碑的‘祖先本’たちだと思う.

◇『変異するダーウィニズム:進化論と社会』の書評を書き始める.こりゃデリーのカシミール・カレーほど辛いや.

◇本日の総歩数=9648歩.


6 november 2003(木)

◇前夜からずーっと雨.気温も高いし11月らしさはまるでなし.

◇ちょっとでも職場を離れていると,届いた本が積み上がっているので,復帰したときにおたおたする――京大出版会からの献呈本としてベゴン他『生態学――個体・個体群・群集の科学』の第2刷(11月15日刊)がドカンとやってきた.第1刷と並べておきたいのだが,いったいどの本棚に入れればいいのか.あるいは,居室の入り口の左右に分けて据えるか.狛犬のように

さらに続いて――カルロ・ギンズブルグ『歴史を逆なでに読む』(2003年10月24日刊行,みすず書房,ISBN: 4-622-07064-2)とアルフレッド・W・クロスビー『数量化革命:ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』(2003年11月1日刊行,紀伊國屋書店,ISBN: 4-314-00950-0)がbk1から到着.ギンズブルグの新刊には原書はなく,日本語版のためのオリジナル論集だとか.最初の『チーズとうじ虫』以来,ギンズブルグの著作は途切れずに読んできた.そろそろ『ピエロ・デッラ・フランチェスカの謎』に登攀してもいいかな.

◇東大出版会から『UP』の最新号(11月号)――ついに来月ですな:倉谷滋『動物進化形態学』(12月刊行予定).※で,倉谷さん,700ページの大台に達したのでしょうか(こわごわ...).重厚長大化する〈ナチュラル・ヒストリー・シリーズ〉.

◇昼前には天気は回復,日射しが戻ってきた.きょうはもう傘はいらんみたいやね.夕方から東京で謀議が予定されている.その前に,時間があれば〈第5回図書館総合展〉が開催されている東京フォーラムに行ってみるか.※河野さん,ガイドブック,ありがとうございました.

◇出発直前に現代新書編集部から督促電話――やば,職場に長居は無用だあっ!(すたこら)

◇車中にて『変異するダーウィニズム:進化論と社会』を読了――第IV部「ダーウィニズムの現在」は本書の冒頭に置かれるべきだったし,内容的にももっと拡張されてしかるべきだったと思う.通読しての感想:個々の章には汲むべき情報があるものの,論文集全体としてはイマイチ.理由ははっきりしていて,全体としての議論スタイルが「日本」&「過去」というキーワードにしばられているから.なぜ「世界」&「現在」の視点をもてなかったのか.「ダーウィン革命は人文・社会科学にどのような影響を及ぼしたか」というオビに書かれた問題設定はけっして悪くない.決定的に欠如しているのは,その問題に取り組む上での基本姿勢.「日本だけ」あるいは「過去だけ」という縛りの中でどんどん掘り下げてもおもしろくない.その縛りがあるために,解くべき問題に対して満足のいく結論にたどりつくことを難しくしているように見えるのは残念だ.

◇それにしても,あっちこっちと連日動き回っている――東京フォーラムの「第5回図書館総合展」は最終日タイムアウト直前に見歩く.なるほど図書館支援業の展示会みたいなブースもあり.〈収納〉の問題は図書館の背負う〈原罪〉みたいなものか.電子化するのはいいとして,蓄積された「ブツ」は最後の最後まで残るもんね.フォーラム〈新しい科学コミュニケーションを求めて:学術雑誌再考〉の提言は,研究者の立場からの【3ない運動】――異常に高価格な学術雑誌は「買わない/投稿しない/査読者にならない」ということ.なるほど.その一方で,ScienceDirectをさらに拡張しつつあるエルゼビア主催のフォーラムは〈800万論文の衝撃!――電子ジャーナルにおけるバックファイルの意義〉というもの.学術業界のコングロマリットとなりつつあるのか.〈六本木ヒルズに学ぶ図書館戦略〉なんてフォーラムも.

◇当然のごとく本屋を徘徊――八重洲ブックセンターにて,関川夏央・谷口ジロー『『坊っちゃん』の時代』(全5巻)をゲット.今年になって文庫化されているが,15年前に出た〈アクション・コミックス〉版(双葉社)の方.そのうち入手できなくなると予想される.八重洲BCでは,ときどき「事実上の古書」が本棚に混じっていたりする.続いて,東京駅地下街の八重洲古書館店頭の平台にて,ネパール語語源辞書『A Comparative and Etymological Dictionary of Nepali Language』(1931年,Routledge & Kegan Paul)をゲット.研究社大英和辞典ほどのボリュームなのに,なんと300円! ネパール語の辞書だが,後半部分は印欧祖語からの復元形がリストされている.ナーガリー文字ってなんだか呪術的.

◇夕闇迫るJR東京駅ビルの最上階で密議の始まり――ほおほお,なるほどそーいうことだったのですかぁ→独立行政法人科学技術振興機構異分野研究者交流フォーラム〈進化生物学によって人間観は変わるか?〉(コーディネーター:まりまり).会議日程は来年2月上旬,場所は上信越の山間.分野別に講師候補を絞りこみ,これから依頼をすることに.参加者は上限50名を予定.参加費無料.※ワタシ,委員長ですって.もちろん,某COE(Center of Enslavement)元締からは「奴隷ね」とクギ.はい〜...(冷汗).委員のみなさん,よろしくぅ.MLはすぐに立ち上げますです,ハイ.

◇そのあとヒールでうんと踏まれたり,ナパ・ワインをじっくり賞味したりして,気がつけば終電近い常磐線に駆け込んでいた.駅を降りると,濃い霧がねっとりと....もちろん,日は変わっていた.

◇本日の総歩数=13387歩.


5 november 2003(水)

◇今日も年休の朝――日常労働する人たちを横目に〈非日常〉を過ごすというのは「密の味」.前日からの続きで,さらに打合せをする.もうひと押しくらいかな.

◇またも移動.車中『変異するダーウィニズム』を読み進む.なんと,石川千代松は「日本のThomas Henry Huxley」だったとは! 帝大教授E.S. Morseの通訳・翻訳を手がけた石川は,明治期の進化論導入に大きな働きをしたが,普及者としてそこまで貢献したとは知らなかった.個人的にはMorseがどのような「進化論」を日本に持ちこんできたのかは関心がある.彼の師であるMCZ創立者Louis Aggasizが頑強なアンチ進化論者だっただけになおさら.

◇日本の進化論史は「モース」から語り始められることが多いようだが,その知的系譜のルーツをさらにさかのぼると,もっとおもしろいことがわかるように思う.石川千代松は細胞から群体にいたる中間段階としての「個体(person)」に関心をもっていたそうだ.哲学的な意味での個体性(individuality)への関心とヘッケル的な意味での系統論への傾斜を考え合わせると,やはり日本だけの問題にはとどまらないということだろう.

◇この章を執筆した斎藤光は,日本の進化論受容史を概観して,こう書く:「最後に総合説や社会生物学の日本への遅れた登場.そこでの配役はドーキンスとグールドである」(p.363)――??? そりゃちがうでしょ.あ,それとも〈Dawkins=good guy〉対〈Gould=bad guy〉ってこと?(\ぽか).ときどき,この章に限らず「心臓によくない記述」がちょこちょこ見つかる.

◇京大出版会の高垣さんから,この本の詳細目次を送っていただいた(感謝).さっそく書影とともに公開させていただきます→『変異するダーウィニズム:進化論と社会』目次.

◇本日の総歩数=7085歩.※ただ乗ってるだけだとフィジカルな足は不要.


4 november 2003(火)

◇今日から二日間は年休を取るのだ.ぐーぐー寝るわけではないが.

◇未明からまたも〈霧筑波〉状態(昨日もそうだった).最低気温も高く,とても11月とは思えない.国道沿いの街路樹になっているセイヨウフウの紅葉も足留めをくらっているか.

◇〈EVOLVE〉と〈BIOMETRY〉のトップページをつくってから,入会申込者が増えている.以前は「名前は知っていたけど,どうやって入会していいか知りませんでした」というケースもあったのだが,これからはそういうことはなくなるかな./東大農学部での保全生態学特論MLを閉鎖する.集中講義ごとに開設するMLは用済みになったものからどんどん整理していかないと溜まってしまうから.

◇子どもにもわかる!幾何学的形態測定学――〈GridWarping〉.なるほど!

◇移動,そして打合せ.なお「溝」は深いか? それほど悲観はしていないのだが,説得にまだ時間がかかるのは確かだろう.頑張りましょう.〈GeneRoots〉で決まり.※タイムスリップした〈静〉のだし巻きはことのほか美味でした(予想を裏切らず).

◇都立大学の生物統計学レポートがメールでぽつぽつと届き始めた.締切は今日中.受講生のみなさん,書いてねー.

◇本日の総歩数=20136歩.※おー,さすがに歩数が増えるわい.


3 november 2003(月)文化の日

◇「文化の日」くらい,わき目のふらず読書しなければ,申し訳が立たない――ということで,場所を問わず読み続け,『変異するダーウィニズム:進化論と社会』を400ページほど踏破.いわゆる「科学史ぃ」な論集だけど,各章がまとまった分量があるので読後充実感が得られる.『種の起源』のフランス語訳を手がけた女性のエピソードとか,ポーランド社会進化論者の話題とか,あるいは加藤弘之における進化論的「転向」とそれに続くスペンサー的「旋回」とか.ただいま社会有機体論の章(丘浅次郎,石川千代松が主役)を藪こぎしてます.登攀成就までにはあと200ページ余り残っている.

◇基本的視点としては〈ダーウィン進化理論〉がどのような波及効果を周辺の人文科学や社会科学に及ぼしたのかを探るというところに置かれているので,生物学プロパーの人間はなかなか手を伸ばそうとしないかもしれない.第IV部【ダーウィニズムの現在】が現代へのつながりをつけようとする姿勢を感じさせるが,ぼくの感じるところでは,論文集としての位置決めに偏りがあるようだ.京大人文研の「総括報告書」としてはこれでいいのかもしれないが,この手の論文集には当然入っていてほしいテーマの洩れ落ちが目立つ.たとえば生物学哲学・進化倫理学・社会生物学・ミーム学――これらはいずれも現代的な意味で人文・社会に関わりをもったテーマとして独立の章をそれぞれ立てて論じる価値があったはずだ.

◇個別の章ごとに読めば確かにおもしろいし,教えられることは多々あった.しかし,論文集全体としての“location parameter”はズレていると思う.う〜んとねえ,なんちゅうか「〈よそさん〉はどーでもええねん」ゆう感じがちらっとしてね.

◇山本義隆『磁力と重力の歴史』がいろいろな賞を受賞しはじめましたね――第57回毎日出版文化賞&第1回パピルス賞.みすず書房のサイトには,著者の言葉が掲載中:山本義隆〈どちらかというと文科系の本なのですが〉.「理科系/文科系」とか「専門学術書/一般向き教養書」という区別そのものを拒否したいと言う.こんなくだりも――


・・・そんなわけで,はやくも「文科系化」された専門の科学史学者と「理科系」の個別科学研究者のあいだに距離が広がっています.科学史学者は個別科学の研究者の書いた「啓蒙的・教育的科学史書」を軽んじ,逆に個別科学の研究者にとっては科学史学者の手になる「専門的・学術的科学史論文」は面白みがなくなっています.

――確かに思い当たる節はある.

◇本日の総歩数=15719歩.


2 november 2003(日)

◇三連休というのに,超朝型ライフはなお続く.

◇現実逃避の新刊チェック――TRC 1347号からの私的セレクション.カルロ・ギンズブルグ『歴史を逆なでに読む』が出たか(即購入ですな).前著『歴史・レトリック・立証』はたいへん感銘を受けた本だったので,この新刊にも期待しましょ.

◇何に感銘を受けたかと言うと,歴史学においてレトリックとしての「物語(narrative)」とデータに基づく「テスト」とは両立するのだという点をギンズブルグが説得的に示したことにある(アリストテレスのエンテュメーマ概念にさかのぼっての論議).たとえば,こういう主張――


わたしがとろうとしている解決策はナレーション〔叙述の作業〕とドキュメンテーション〔資料的裏付けの作業〕との緊張関係をそのまま研究の現場に持ち運んでこようというものである.(p.3)

あるいは,実証主義者と相対主義者のいずれに対しても距離を置こうとするスタンス――

資料は実証主義者たちが信じているように開かれた窓でもなければ,懐疑論者たちが主張するように視界をさまたげる壁でもない.いってみれば,それらは歪んだガラスにたとえることができるのだ.ひとつひとつの個別的な資料の個別的な歪みを分析することは,すでにそれ自体構築的な要素を含んでいる.しかしながら,以下の諸章において明らかにしたいとおもっているが,構築とはいってもそれは立証と両立不可能であるわけではない.また,慾望の投射なしには研究はありえないが,それは現実原則が課す拒絶と両立不可能であるわけでもないのである.知識は(歴史的知識もまた)可能なのだ.(p.48:ボールド三中)

は,ぼくが統計研修の「概論」でデータを前にしての心構えとして毎年話していることだ.このスタンスの帰結としての資料(データ)に対するギンズブルグ的批判的態度――

ヴァルター・ベンヤミンが要請したように「歴史を逆撫でする」(die Geschichte gegen den Strich zu buersten)ためには,ひとは証拠を逆撫でしながら,それをつくりだした者たちの意図にさからって,読むすべを学ばなければならない.唯一このような方法をとることによってのみ,どちらか一方を無視しようとする相対主義者たちの傾向に反対して,権力関係をも権力関係に還元しえないものをも考慮に入れることは可能となるであろう.(p.46:下線&ボールド三中)

がおそらく今回出版された新刊の中心テーマになるのだろうと想像している.

◇11月4〜6日に東京フォーラムで開催される第5回図書館総合展について,河野さんから知らせていただきました.フォーラムがパラレルにいろいろあって,図書館学,デジタル・ライブラリー関連だけではなく,慶應大学のHUMIプロジェクトとか学術情報サーチのフォーラムもあります.4〜5日は行方知れずとなるのですが,東京フォーラム前を通りすがるかもしれないな.

◇小川眞里子「物語としての『種の起源』」(『科学』, vol.73, no.11, pp.1213-1220)を一読する――『生物系統学』の冒頭(p.1)で書いたように,ぼくの理解では,歴史叙述(historiography)での「物語(narrative)」というのは,ある歴史的データ(資料)に基づいて構成される説明の一形式ということになる.しかし,著者は別の解釈をしているようだ――


近年『種の起源』を物語りとして解読する研究が進められてきている.すなわち科学的な事実や議論を記した本として読むばかりでなく,『種の起源』を言葉の選び方や語り口といった面から解読する作業である.(p.1215)

――科学としての「物語り」を論じるのであればぼくの関心は高まるけど,単に文体(文学的な意味での)とかレトリック(悪い意味での)もしくは社会的構築を論じる「物語り」論には周辺的な関心しか向かない.何を〈解読〉しようというのだろう? そういう文学談義がときとして不毛に陥ってしまうことは,上で言及したギンズブルグの〈エンテュメーマ論〉あるいはウンベルト・エーコの〈過剰解釈(深読み)〉論をいやでも思い出させてくれる.萎えますね.そういう論議に関心をもつ人たちの集まりがあってもいいとは思うけど,ぼくがその集合の要素でないことは明らか.

◇隙間時間に隙間仕事をすませる――「“みなか”の書評ワールド(2)」のゲラを返送;進化学研究会の快速変更に関わる投票用紙の返送;某誌の投稿原稿レフリー結果の返送.※大仕事はなかなかスタートできないけど,小仕事ならなんとかかんとかね.

◇データ解析のついでにと思って,〈ModelTest〉&〈最尤法 on PAUP*〉に手を出したら,こ,この牛歩はいったい....PowerBookG4ちゃんも健闘してるけど〈ModelTest〉だけで計算完了に一晩かかったもんね.〈PAUP*〉での最尤法計算は〈Bogen〉最節約樹を初期値として TBR swapping させてるけど,それでもどーしよーもないって感じ.データサイズがもっと巨大化したら,みなさんいったいどーするのかって他人事ながら気になってしまう.いまのところ branch swapping 1回につき5秒かかっている.TBRというアルゴリズム自体がもう先行きマックラなのかもしれない(Pablo Goloboffは正しかった).だまって熱くなっているG4ちゃんを横目にそんなことを考えてみたり.

◇なるほど,多変量解析は〈瓦礫の山〉とな? 確かにねー.ただ,「丸腰」のままに比べれば,「瓦礫」でさえないよりマシという状況はけっしてまれではなかったと推察します.※へぇ〜,札幌での動物行動学会懇親会は近年にない【酒池肉林】だったそーで.実にうらやましい....タイミング悪く統計研修さえなければ,北の地の【酒池肉林】に奔っていたにちがいない.いーなあ,【酒池肉林】.

◇本棚の古い書類をがさごそと並べかえていたら,数年前からお隠れになっていた金風山人戯作『四畳半襖の下張』のコピーを発見.某出版社資料室所蔵の原本からのコピーなるものの孫コピー(正確な「親等」は不明).B6版サイズで,全27ページ.入手したのは20年以上前のこと.もちろん無修正版.いまとなってはこういう擬古文体でかような内容を読もうとすること自体が‘われながら正気の沙汰とはいゝがたし’なのかもしれないが.

◇『下張』とともに時は「文化の日」に突入.

◇本日の総歩数=2520歩.


1 november 2003(土)

◇未明からまたもごそごそと活動.ここ数日,明け方の冷え込みがそれほどでもないので,朝型にとってはシアワセ.

◇昨夜からのデータ解析の続き.祖先DNA塩基配列から祖先タンパク質への翻訳――〈MacClade〉を用いてそれをやる場合には,あらかじめ「Character List」ウィンドウでコドン位置の計算をさせておく必要がある.アラインメントした時点でのコドン位置がわかっていれば,それをレファレンスとして配列全体のコドン位置を計算する.レファレンスがない場合は「停止コドンの最少化」で乗り切るのか? そのあとにアミノ酸配列への翻訳を実行(アンドゥーできないので注意).とりあえず,〈Bogen〉で計算した最節約分岐図(2個)のひとつについては,ACCTRAN最適化に基づく祖先DNA配列と祖先アミノ酸配列を復元完了.とりあえず,出力レポートをまとめる.

◇同じNEXUS文法で書かれたデータ・ファイルでも,〈PAUP*〉と〈MacClade〉では受容ハードルの高さがちがう.「TaxLabels」が数値(numeric)であるとき,〈PAUP*〉はそれを受け入れるが〈MacClade〉はエラーとして弾き返す(最低ひとつは数値でないキャラクターが入っていないとダメということ).

◇新刊『メアリー・アニングの冒険』(2003年11月,朝日選書)が出版されることを著者の矢島道子さんから教えてもらう.魚竜化石の発見者として知られるイギリス女性の伝記だ(と思う).矢島さんとメアリー・アニングとの関わりについては,こんな日記が見つかる.メアリー・アニングは,ずいぶん前に読んだデニス・R・ディーン『恐竜を発見した男:ギデオン・マンテル伝』にも登場していたことを思い出した.あれー,でももっと詳しい小伝があったような...と過去の書評フォルダをひっくり返してみたら,ははー,出てきました,これですねえ:デボラ・キャドバリー『恐竜の世界を求めて:化石を取り巻く学者たちのロマンと野望』.しょっぱなにメアリーさんが登場します.

◇おととい送られてきた,松田裕之さんが『生物科学』誌に出す予定の小池裕子・松井正文編『保全遺伝学』書評原稿へのコメントを編集部にメールで返す.

◇掲載許可が得られたので,竹澤邦夫さんの〈Rによるノンパラメトリック回帰〉を〈租界R〉に置く(pdfファイル:サイズ155KB).ノンパラメトリック回帰だけにかぎらず,〈R〉を使う上でのさまざまな「極意」がボックス化されている.

◇あれれ,小雨が降り出してる.せっかくの三連休なのにねー.と思ったら,薄日が射してきた.

◇小川眞里子著『甦るダーウィン:進化という物語り』続報――昨日届いていた岩波『科学』の最新号(11月号)の小特集「進化をめぐって」に著者が寄稿していました:小川眞里子「物語としての『種の起源』」(pp.1213-1220).発売日は11月15日とのこと.進化に関する〈narrative〉論を展開しようということか.

滅びゆく?多変量解析――久保師いわく,線形な多変量解析は「滅びゆく技法」(10月30日)であって,そのうち「衰退していく」(10月29日)だろうとの黙示録的預言.おお,これは久々におもしろい統計噺のネタになるではないか! ぼくは,線形統計学が認知統計学(あるいは民俗確率論)に根差した進化心理的アピールをもち続けているかぎり,誰がなんと言おうが滅びるはずがないという信念をもっているのです.われわれは〈skin-deep〉な非線形統計学などは,リクツでは理解できても,原初的な〈gut-feeling〉に訴えかける線形統計学にかなうはずがないと実はココロの底で信念をもち続けているのではないかということ.「線形大好き/非線形キライ」という心理は,今までと同様にこれからも陰に陽に人間の統計学的直感に作用し続けると思います.心理が必ずしも真理を意味しないことを重々承知していて,なお線形にこだわる性向があることは明白ですよね.線形統計学が心理的に納得できる説明を提示するかぎり,真理を追究する?非線形統計学に勝算はないという皮肉なことになるんじゃないかな.

◇さらに言えば,多変量解析は多変量統計学ではないと前もって心得ておくのが,あとで実態を知ったときのショックが小さくてすむような気がする.なまじ,多変量解析には確率・統計的に確固たる基盤があると思いこむと,知ってしまったときの落胆の度合も大きいのではないでしょうか.ぼくの統計曼荼羅で,多変量解析の多くの手法がパラメトリック/ノンパラメトリック聖戦地帯とは別の茫漠たる荒野に点々と落ちている構図というのは,統計学とは別の次元にそれらの多変量解析手法が属しているのだという暗喩でもあるわけ.「別の次元」――それは多変量・高次元を少変量・低次元に絞りこむという認知心理的に有意義な操作を指します.多変量解析は第一義的に多変量データを「通常の人間でも理解可能な空間に射影する」ことを目指す(線形数学の助けによって).確率論・統計学的な基盤は,よく言えば後知恵にすぎないということ(悪くいえばお飾り).もちろん,そういう理論的ベースを積極的につくっていくというのは,別のスタンスからは有意義なことと評価されるでしょう.しかし,そのときでさえ,「多変量解析がもともともっている認知的役割と抵触しない範囲で」というトレードオフが生じるような気がします.

◇多変量解析が生みだされた〈学問的故郷〉をそれぞれ再訪するとき(主成分分析を産んだカール・ピアソン,判別分析のロナルド・フィッシャーなど),確率論・統計学に属する以前に,多変量解析はもっと原初的な(現実の必要に迫られた)心理的動機で編み出された「データ処理法」であることが見えてくるのではないでしょうか.

◇本日の総歩数=6731歩.


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