【書名】歴史を逆なでに読む
【著者】カルロ・ギンズブルグ
【訳者】上村忠男
【刊行】2003年10月24日
【出版】みすず書房,東京
【頁数】305 pp.
【定価】3,600円(本体価格)
【ISBN】4-622-07064-2
【原書】なし
【備考】日本語版のためのオリジナル編集



【書評】※Copyright 2003 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

過去の歴史はどのように復元できるのか――歴史の推論をめぐるこの問いかけは,人文分野の歴史学のみならず,進化生物学の系統推定論にも等しく当てはまる.直接的な観察や実験が不可能な状況で,はたして歴史や系統は「科学的」に推論される対象となりえるのか.歴史学においては,かつての実証主義に与する見解が退場し,その代わりにヘイドン・ホワイト(たとえば『物語と歴史』2001年,リキエスタの会)に代表される相対主義的懐疑論――歴史の〈物語(narrative)〉論と呼ばれる――が流行している.

本書の著者カルロ・ギンズブルグは,実証主義と相対主義の対決のはざまで,いずれにも寄らない「第3の道」を進む.それは,史料(データ)を批判的に吟味しながら,歴史に関する推論を詰めていこうとする姿勢である.同じ問題意識のもとに編まれた前著『歴史・レトリック・論証』(2000年,みすず書房)で呈示されたテーマは,本書においてさらに深く具体的に展開されている.

前半の第I部では,歴史叙述と証拠との関わりをめぐって,ヘイドン・ホワイトを批判しつつ,自説を述べる.後半の第II部は,前半部分を受けて,ギンズブルグがこれまで扱ってきた具体例を挙げていく.テーマを絞りこんだ第I部に比べると,第II部は論点がまとまりきらなかったような印象を受ける.

第1部は,ターゲットをただ一つに絞りこむ――「わたしは物語論的立場は打破されなければならないと考えている」(p.11).そう,本書の前半100ページあまりはヘイドン・ホワイトの〈物語り〉論的懐疑主義――「歴史とフィクションとはそのいずれもが採っている物語論様式の面からは厳密に区別不可能であるとする〔ホワイトの〕懐疑論的テーゼ」(p.10)――を批判するのに割かれている.

歴史の〈物語り〉論の何が問題なのか――第1章でギンズブルグは言う:

今日,歴史叙述には(どんな歴史叙述にも程度の差こそあれ)物語的な次元が含まれているということが強調されるとき,そこには,フィクションとヒストリー,空想的な物語と真実を語っているのだと称している物語とのいっさいの区別を,事実上廃止してしまおうとする相対主義的な態度がともなっている.(p.42)※ボールド三中

歴史に関する仮説がデータによってどれくらい強く支持されているのかは,その仮説の選択(対立仮説との相対的な比較のもとで)にとってもっとも重要である(絶対的真実かどうかは問わない).しかし,そのためには,データによる仮説のテストが可能なのだという前提が不可欠である.相対主義はその前提を否定する.“フィクション”と“真実”との「境界」をあえてぼかしてしまうのが常套手段だ.

第2章では,歴史叙述をめぐる哲学の変遷に目を向ける.半世紀前のカール・ヘンペルは,彼の科学哲学の枠組みの中で,歴史の科学的地位と「一般法則」の重要性を論じた.一方,後の世代のヘイドン・ホワイトは,歴史に関する社会構築主義を前面に立てて,ヘンペル的な残滓を一掃処分しようとする:

「芸術と科学のあいだに存在すると想定された〔歴史という〕中立的な中間領域は,芸術的な陳述も科学的な陳述も双方ともに構築主義的な性格のものであることが発見されたことによって,一掃されてしまった」(p.53:ヘイドン・ホワイト 1966年)

ヘイドン・ホワイトの懐疑論的立場に対して,ギンズブルグは歴史叙述の現場で行なわれている作業を再検討することで反論をする.古代の歴史家は叙述の技法としての〈エナルゲイア〉――「いきいきとした印象」(p.57)――をもって「歴史」を描き出そうとした.一方,そのような歴史とは異なる系譜に属しているのが「年代記」である(pp.67ff.).年代記と歴史とは「相異なる文学ジャンル」(p.72)であると言う著者は,年代記は最初から「架空」を排した「真実」を求めていたことに光を当てる.証拠(たとえば古遺物学のような)に基づく真偽の判定は「つねに歴史的認識におけるひとつの本質的な要素であった」(p.75).

エナルゲイアを技法とする歴史叙述の古典的スタイルが,証拠に基づく年代記を基盤とする歴史叙述に取って代わられたことは,歴史家の「作業現場」での大きな転換だったと著者は言う:

文学的な技巧によって過去をひとつの全体として開示することができるという確信は,過去についてのわたしたちの知識は必然的にほころんだものでしかなく,そこにはところどころに欠落や不確実な点が散在しており,断片と廃墟のうえに成り立ったものであるという自覚に取って代わられたのであった.(p.77)

第3章では,歴史学における「証拠」の意義について論を進める.アンチ実証主義の流れは,証拠や真実ということばを「社会諸科学のなかでは廃語に等しく」(p.83)してしまうという風潮を生んだと著者は言う.確かに,実証主義の見解では,証拠は真実を向こうに見通せる【窓】であると考えられた.対極的に,相対主義的懐疑論は証拠とは【壁】すなわち「現実へのどのような接近の可能性をもあらかじめ閉ざしてしまっている壁である」(p.84)とみなしている.しかし,この相対主義は「裏返しの実証主義」(p.84)にほかならないと著者は指摘する.証拠と現実との関係に関して,実証主義と相対主義は「ひとつの共通の,どちらかと言えば単純にすぎる前提を分かちもって」(p.84)いて,証拠を善玉として諸手をあげて歓迎するか,逆に悪玉として最初から排除するかという態度以外の選択肢を持ちあわせていないということだ.

過去の実証主義への反省は過度の相対主義を生む.その反省の行き過ぎ(証拠の門前払い)を著者は懸念する――

わたしたちは実証主義を拒絶する場合でも,なお“現実”とか“証拠”とか“真実”といった概念には立ち向かわなければならないのである.(p.84)

この「現実原則」(p.85)は,証拠と現実との関わりを丹念に読み解くことで,はじめて実行できる――

歴史的証拠には無意的なもの(頭骨,足跡,食物の残り滓)もあれば有意的なもの(年代記,公証人証書,フォーク)もある.が,どちらの場合にも特別の解釈枠組みが必要とされることに変わりはない.そして(後者の場合には)証拠が構成されるさいに準拠した特別のコードに関係づけられる必要がある.どちらの種類の証拠もゆがんだガラスにたとえることができるだろう.(pp.84-85)※ボールド三中

鵜呑みにしたり吐き出したりするのではなく,眼前の証拠を批判的に(「逆なで」しながら)読むことが著者は歴史家の仕事であると言う.この点は,前著『歴史・レトリック・論証』の中心テーマと呼応する.

現代の歴史学に流行する相対主義的懐疑論は,ヘイドン・ホワイトの主著『メタヒストリー』(1973)における〈物語り〉論に連なっている.第4章では,ヘイドン・ホワイトの歴史観の由来をたどることにより,相対主義へのもうひとつの批判を投げかける.ヘイドン・ホワイトの主観主義的歴史観は,ベネデット・クローチェやジョバンニ・ジェンティーレらアンチ実証主義闘争に邁進した「イタリアの新観念論哲学」(p.113)の強い影響のもとに形成されたのだと著者は指摘する.ヘイドン・ホワイト自身は,「相対主義というのは,認識論の分野における懐疑論の道徳的等価物」であり「社会的寛容の基盤であるとかんがえている」(p.118).しかし,ギンズブルグはユダヤ人のホロコーストに関するヘイドン・ホワイトの見解を分析した上で,その主張はまちがっていると反論する.懐疑論や相対主義の中に「寛容」という概念はもともと占めるべき位置を有していないということだ.

本書はヘイドン・ホワイトを主たる標的にしているが,残念なことにヘイドン・ホワイトの著作はまだほとんど翻訳されていないようだ.主著『メタヒストリー』が翻訳されるという話を数年前に耳にしたことがあるが,立ち消えになったのだろうか.

本書は日本語版のために特別に編まれた論集である.各論は広範な内容を含んでいるが(とくに第II部),総論部分に関していえば前著『歴史・レトリック・論証』をあらかじめ読んでおくとギンズブルグの論旨がたどりやすいように感じた.

三中信宏(30/November/2003)


【目次】
歴史を逆なでに読む――日本語版論集への序言 5

I
 第1章:証拠と可能性 18
 第2章:展示と引用――歴史の真実性 52
 第3章:証拠をチェックする――裁判官と歴史家 78
 第4章:一人だけの証人――ユダヤ人大量虐殺と現実原則 99

II
 第5章:人類学者としての異端裁判官 130
 第6章:モンテーニュ,人食い人種,洞窟 149
 第7章:エグゾティズムを超えて――ピカソとヴァールブルク 186

結びに代えて――自伝的回顧 228

注 251

編訳者あとがき(上村忠男) 299