【書名】アナロジーの罠:フランス現代思想批判
【著者】ジャック・ブーヴレス
【訳者】宮代康丈
【刊行】2003年7月20日
【出版】新書館,東京
【頁数】218 pp.
【定価】2,200円(本体価格)
【ISBN】4-403-23096-2
【原書】Jacques Bouveresse 1999.
    Prodiges et vertiges de l'analogie:
    De l'abus des belles-lettre dans la pensee.
    Editions Raisons d'agir.


【書評】 ※Copyright 2003 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

天下太平〈快楽の園〉は果てしなく――ミュンヒハウゼン男爵は靴ひもを引っ張り,ハーリ・ヤーノシュ将軍は大法螺を吹く


三中信宏
15/August/2003

アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンのベストセラー『「知」の欺瞞』(岩波書店,2000年)を楽しんだ読者は,「著名なポストモダン思想家たちはなぜこのような科学の概念や用語の濫用をしてきたのか,そしてなぜそれらは糾弾されることなくまかり通ってきたのか」という読後感を一様に抱くだろう.本書を読めばその疑念をきっと晴れる.著者によれば,それは「一時的な失態」(p.57)などではなく,フランスの現代思想界の内に巣食う「宿痾」のごとく根深い知的伝統に発するのだ――

「事実や論拠,議論可能なものをいつでもできる限り避けようとするのは,現代哲学がとりわけ秀でたお家芸の一つである」(p.68)

「フランスの哲学者のあいだで広まっている信念の一つによると,哲学はいわゆる‘思考’とのいわく言いがたい密接な関係を活かしているのだから,ほかの分野から説明を求められてもはねつければよいらしい.とりわけ,論理によっても,またいかなる性質の経験的事実によっても制約されない.実際,一般にフランス哲学が論理というものを軽んじているのは周知の通りである.また経験的事実についても,まるでなきがごとしというか,そうでなければ,せいぜい経験論者の関心をそそるくらいなものである」(pp.53-54)

論理やデータに制約されない「自由な思考」,厳密性を軽視する「ポストモダン的メンタリティー」(p.81)を至上とする知的系譜が,なぜいま繁栄するのか――その理由を著者は「文学的哲学主義」(p.165)という言葉で表現する.自由な思考は「ありとあらゆる権利を持ち,どんな規則をも超越している」(p.165)というその基本的姿勢は,論理や厳密性ならびに経験やデータは「思考の自由」を侵害する脅威であり敵にほかならないという教条を導く――

「いったいなぜこれほどまでに,厳密たるべしという要請が,多くのフランスの知識人にとって,真正なる思考の第一の敵となってしまったのか」(p.79)

「思想の自由の名のもとに,他人に批判の権利を認めなくなってしまった」(p.176)

「批判という批判を片っ端から思想と表現の自由に対する耐えがたい侵害と考えるのは,すでに述べたように,フランスの知識人の習性(それも憎むべき悪癖)」(p.184)

このようにして,ポストモダン思想に対する,いっさいの論理的な反論あるいは経験的な反証は当の思想家に対しては何の痛みももたらさず,むしろ単に科学に対抗する敵意のみが増大することになる――「ソーカルとブリクモンに糾弾された著者たちが気まずさや何か罪悪感をあらわすかもしれないなどと期待してしまうのは,かなりのお人よしであったと言うべきだろう」(p.63).

著者の結論はきわめて悲観的である.フランス思想界の「宿痾」がすぐにも治癒されるとはまったく期待していない:「私が理解に苦しむのは,理性を使うように促すことを今日では知識人が忌み嫌っていることである」(p.197).知識人だけの問題ではなく,そのような思潮を陰に陽に支持しているメディアにも著者は批判の矛先を向ける.

『「知」の欺瞞』をあえて曲解しその意義を過小評価しようとする風潮は日本でも広く見られる.しかし,本書を併せ読むことで,そのメッセージはもはや誤解できないほどストレートに読者に伝わるだろう――「合理的思考にも存在する権利があるわけで,まさしくそうした権利の擁護こそが今日では必要ではないかとも思っている」(p.197).知的誠実さを至上とする別の「文化」を立てる必要があるのか.とすると,著者が言うように,「二つの文化」論(p.14)はここにもまた適用例を見出すことになる.

本書はタイムリーに登場した翻訳書だと私は思う.「訳者あとがき」も役に立つ.いささかシニカルな文体に最初はなじめなくても,いらだちにも似た著者の思いがよく伝わってくる.

さて,これから科学者はいったいどのような態度を取ればいいのだろうか.『「知」の欺瞞――延長戦』のような糾弾本を新たに書くべきか? それとも,ある生態学者が言ったように,「この世には不要な学問もあるんですね」と距離を置くべきか? 「宿痾」の原因解明は,根本治療がいかに困難であるかをより切実に認識させる結果となった.あ,ひょっとして「治療」なる言葉もまた「自由なる思考」への「全体主義的攻撃」になるのかなあ? もう,勝手にやってくださいな.いつでも裁いてあげますから.それとも,捌かれた方がうれしい?

※bk1にオンライン書評として短縮版を別途掲載


【目次】
凡例 4

序 11
1.人文系知識人に「科学的である」と見せる技術について 31
2.人文系知識人に科学的素養が欠けていることが,この惨禍の真の原因か 45
3.いかにして濫用の張本人が犠牲者へ,そして告発者へと変貌するか 61
4.無知であることの利点,ならびに一種の高度な理解と見なされる混同 75
5.ゲーデルの災難,あるいは不完全性定理を我田引水する哲学者の技術 99
6.「貴様も同じだ!」という論法 119
7.哲学の本当の敵は誰か 143
8.ソーカル事件とその後――教訓は理解されるのか 163
9.批判の自由なき思想の自由 175
エピローグ 193

注 199
訳者あとがき 207
人名索引 [218-216]