三中信宏『進化思考の世界』目次


まえがき —— 呼び出される祖先



ヘツケル博士!
わたくしがそのありがたい証明の
任にあたつてもよろしうございます
(宮沢賢治『春と修羅』一九二四年から)

 作曲家イゴール・ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky  一八八二〜一九七一)は、一九一三年に完成した舞踊音楽〈春の祭典〉の第二部「いけにえ」で古代の祭礼をテーマに数曲を編んでいる。やがて屠られる定めのいけにえを前に、祖先が過去から召還され祭儀が粛しゆくしゆく々と進む。生者と死者が入り混じるその情景を刻みつける野性的な変拍子のリズムは、人間社会の原初段階にあったであろう土俗宗教のイメージをいやが上にもかき立てる。

 現在から過去に思いを馳せ、逆に過去から現代に光を照射する。歴史学にせよ進化学にせよ、物事や存在の系譜をたどる研究分野に身を置くならば、生者としてのひとりの人間のライフスパンではぜったいに到達できないはずの大昔の事象や過程を、さも身近にあるかのように考察し、そして語るのは日常のことである。しかし、そのような研究者でなければ、生ける者が滅びし者と語り合える機会はふつうはごくかぎられているのかもしれない。

 本書の中心テーマは、「進化(evolution)」という言葉の持つ意味を探り出し、その歴史を掘り下げることにある。進化というプロセスを担う実体といえば私たちはすぐに「生物」を思い浮かべる。現代進化生物学の祖であるチャールズ・ダーウィン(Charles Darwin  一八〇九〜一八八二)の生誕二〇〇年のイベントが世界中で催されたのはつい昨年(二〇〇九年)のことだった。たしかに、生物進化はそれ自体がたいへん興味深い現象だし、個々の生物の思いもよらない形態や常識を越えた生態に胸をときめかせたことのある読者は少なくないだろう。

 しかし、生物進化という事例は多くの進化するものの中のひとつにすぎない。生物はたしかに進化する実体である。同様に、言語もまた別の意味で進化を経験する実体である。さらに言えば、写本や建築や芸術のような文化構築物もまた広義の進化を遂げる実体だといえるだろう。もちろんこれらの対象物が担う進化は物質的な背景もそれぞれちがうし、プロセスの様相も異なっているにちがいない。にもかかわらず、対象を越えた共通要素がきっとそこにはあるはずである。本書ではその共通要素を「進化思考(evolutionary thinking)」というキーワードであらわしている。進化思考とは、ある対象物がたどってきた歴史のパターンを復元し、それに基づいて因果的なプロセスを考察しようとする思考法である。生物であれば自然淘汰や中立進化というプロセス理論がありえるだろう。言語ならば音韻論あるいは形態論の変遷規則がプロセス理論の中核になるだろう。

 しかし、プロセスとしての進化を問うためには、それを担う実体がどのような変遷のパターンを残しているのかを調べる必要がある。進化思考を構成する柱が「パターン解析」と「プロセス解析」であるとするならば、まずはじめにわたしたちが直面するのは「パターン解析」である。つまり、プロセスを解明する以前にどのようにしてパターンを見いだせばいいのかという問題が浮上してくる。

 生物などの対象が呈示する多様性のパターンを解析する思考法として、私は「系統樹思考(tree thinking)」(三中二〇〇六)ならびに「分類思考(group thinking)」(三中二〇〇九)という二つの考え方を示してきた。たとえ同じ生物を観察対象としていても、分類思考にもとづくアプローチと系統樹思考にもとづくアプローチの間には厳然としたちがいがある。しかも、いずれの思考法も人間としての根幹に関わる深いルーツをもっている。進化パターンを究明する分類思考と系統樹思考を二本の柱として対象物の多様性を秩序づけることが、それに続く進化プロセスの解明に連なるとするならば、「進化思考」の考察という本書の目指すところはおのずと形をなしてくるにちがいない。

 前著で論じたように分類思考や系統樹思考はそれぞれ独自の起源までたどることができる。それと同様に、進化思考のルーツもまた思いがけないほど古くその裾野は広大である。本書では生物進化学のビッグネームであるダーウィンとエルンスト・ヘッケル(Ernst Haeckel  一八三四〜一九一九)を入り口として、この進化思考の世界に歩み入ることにする。その道すがら、分類・系統・進化という三つの概念が、ときに入り混じっては分離する光景を目撃できるだろう。進化思考もまた概念的な進化の産物であることは疑いようがない。いたるところで祖先は召還され、現代へと結びついていく。進化思考の歴史をたどることそれ自体が進化思考でもある。

 多様で複雑なこの世界をなんとか体系化したいと願うのは人間の「業」である。その「業」の闇を覗いてみたい読者はどうぞこの先にお進みください。


Last Modified: 23 September 2010 MINAKA Nobuhiro