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Phylogenetic Thinking
A History and Philosophy of Systematic Biology in the Twentieth Century
Nobuhiro Minaka
現役の研究者がある研究分野をめぐる科学史や科学哲学について何か学んだとしても,彼/彼女が日々励んでいる科学の日常的営為にとって直接的な御利益はないかもしれません.もう過ぎてしまった昔のことにあれこれこだわるよりも,いま評判になっている新理論を勉強したりソフトウェアの新バージョンに慣れたりあるいは今日届いたばかりの機器の操作を学んだりする方がきっと短期的には “役に立つ” にちがいないからです.
しかし,科学史や科学哲学の長期的な視座を欠く科学の危うさはもっと強調されていいと私は考えます.科学・科学史・科学哲学の三者は重なったり分かれたりしつつも,“科学” という同一の対象物を相手にしてきました.相異なる視点から “科学” を見ることは歴史的実体としての “科学” の全体を理解する上で必要でしょう.
日本の教育課程では科学者が科学史や科学哲学を学ぶ機会はほとんどありません.農学系の学部から大学院まで経験した私もまた独学を通じてそれらを知る以外に道はありませんでした.仄聞するかぎり,いまの若い世代の研究者たちの置かれている状況も前と大きく変わってはいないようです.本書が取り上げてきた生物体系学をめぐる科学史や科学哲学についても,若い体系学者(の卵)たちはきっと知らないままではないでしょうか.現代の生物体系学は使えるデータの質と量そして理論と方法論の点でかつての時代とは大きく様変わりしているように見えます.しかし,このことそれ自体は生物体系学がたどってきた歴史を学ばなくてよいという免罪符にはなりません.大量のデータを最新の手法を用いて分析しさえすれば「種問題」とか「体系学論争」みたいなめんどうくさい一切合切をまたいで通り過ぎることができると考えるのはもっとも悪い意味でナイーヴですね.
生物体系学の現在の “風景” を創り出した歴史を振り返るとき,私たちはそれを形成してきた研究者コミュニティーの動態と背景についてもっと知っておく方が体系学者の身のためではないかと思います.科学史的にあるいは科学哲学的に “丸腰” のままのこのこ出かければ瞬時になぎ倒されてしまうでしょう —— 生物体系学とはこれまでもそういう世界だったし,これからもそうであり続けるでしょう.もしかしたら私の主張に首肯しかねるという読者がいるかもしれません.しかし,科学史や科学哲学の基礎がなければ生物体系学の研究領域の “地形” の意味を読み取ることができません.統計学や数学がこれからの体系学者にとっての基本リテラシーであるのとまったく同じ程度に,科学史や科学哲学の知識もまた求められるリテラシーであると考えてみませんか.
生物体系学にかぎらずどんな科学であっても,現時点での研究状況には “山” あり “谷” ありの “地形” が見渡せるにちがいありません.研究者は誰もがこの “地形” のなかのある狭い領域に特化して研究を進めているはずです.そのとき,なぜそこに “山” や “谷” があるのかをあえて問いかける動機はきっと薄いかもしれません.科学者の仕事はもっぱら “山” に登ったり “谷” を降りたりすることであって, “山” や “谷” の歴史的成因に関心をもつ科学史の視点とも,その登攀や降下の理念を論じる科学哲学の視点とも関わりをもっていないことが多いからです.しかし,盲目的に登り降りするだけが科学者の仕事ではけっしてありません.生物体系学というひとつの個別科学にかぎっても,科学としての “地形” は過去一世紀の歴史のなかで大きく変遷し,その結果として現在見るような “風景” をもたらしました.生物体系学という科学の “風景” の向こう側にあるはずの複雑でこみいった歴史と問題状況の系譜は,科学史と科学哲学の力を借りれば “透視” することが可能になるかもしれません.
科学をじっと観察する “鳥類学者” の視点から見れば,科学者という “鳥” どうしの個人的な関係は,たとえ外からは見えなかったとしても,科学の営為にとって実質的に重要な要因でしょう.しかし,“鳥” であるわれわれ科学者にとって何よりも大事なことは,どのようにして科学者人生を生き延びるのかという一点に尽きます.科学史や科学哲学は科学(者)のための武器である —— このことは過去も現在も将来も一貫して変わりがないと私は考えます.さらに言えば,科学という時空的に変化し続ける実体がもつ多様性とその科学史・科学哲学的な背景を知ることにより,現代科学に関心をもつすべての人が科学全体を鳥瞰できる視座を手にすることができるでしょう.
[「あとがき」から抜粋加筆:2018年3月11日]