学問的内容と人間模様とが幾重にも交錯するイギリス科学史は,手練れのノンフィクション作家にとっては腕の見せ所なのだろう.
イギリス地質学の黎明期を描いた本書は「この夏ぜひとも読むべき本」リストに加えるべきだ.地質学や古生物学に少しでも関心のある読者ならば,「全篇にわたる共感のアラシ」とともに「ナミダなくしては読めない」ということになるだろう(本書の解説者・鎌田浩毅の一文も読むべし).一般読者にとっても,『博士と狂人』やごく最近の『クラカタウの大噴火』(いずれも早川書房)で発揮された筆者のストーリー構成力はこの新刊でも裏切られない.
本書は,15年に及ぶ年月の末に世界初の地質図(1815年)を独力でつくり上げ,層位学(stratigraphy)という学問を創設し,後世「地質学の父」と称せられたウィリアム・スミス(1769〜1833)を主人公に据えている.化石による地層の同定法を初めて提唱したのもスミスだったという.
「聖書地質学」への疑念が膨らみつつあった2世紀前のイギリス科学界のようすをふりかえりながら,著者は農民階級の出身で,一介の技師だったウィリアム・スミスがどのような契機で地質の構造と成因に関心を向けるようになったのか,さらには一生を捧げようと決心したのかたどる.身分的に学問を職業とすることができなかったにもかかわらず,技師としての仕事の傍ら,地質のフィールド調査を積み重ね続けた成果が実るまでの紆余曲折が本書の読みどころだ.
パーマネントな職がなくなった主人公はロンドンの債務者監獄に収容されるほどの苦境に陥り,一方で当時のイギリス科学界からは冷遇され,しかも度重なる盗作を受ける――本書のドラマ性を盛り上げる見どころはいくつもある.さりげないディテールをきっちりと積み重ねることで大きな「流れ」をつくっていくというウィンチェスターのスタイルは,グールドのエッセイの文体を想起させる.ディテールと主題とを何重にも共振させるのがウィンチェスターの魅力なのだと思う.
本書の主人公ウィリアム・スミスもそうだし,彼と同時代のメアリー・アニング(吉川惣司・矢島道子『メアリー・アニングの冒険:恐竜学をひらいた女化石屋』朝日新聞社,2003年)やギデオン・マンテル(デニス・R・ディーン『恐竜を発見した男:ギデオン・マンテル伝』河出書房新社,2000年)もそうだが,当時のイギリスの地質学や古生物学に貢献した,力量のある“アマチュア”たちの私生活での〈冷遇〉ぶりは伝記本の中で繰り返し強調されている.彼らが,例外なく一様に,恵まれた社会生活を送ることがまったくできなかったという事情は印象的だ.劇的(悲劇的&喜劇的)なストーリー・テリングにはもってこいの素材ということか.
カラープレートで見るスミスの地質図と,その後,イギリスが国として多くの人とか金をつぎこんでつくった地質図を見比べてみるのは感慨深い.
本書は,新刊広告が出てすぐに成田空港の書店でたまたま見つけ.パリに着陸するまでの10時間あまりの機中で一気に読了しました.まだ読んでいない人はすぐに注文すること.必読です.
三中信宏(20/July/2004)