『分類思考の世界』コンパニオンサイト


分類する者と分類される物のはざまで

—— 人間の分類思考のルーツをたどる旅 ——


われわれは誰しも日常生活の中で無意識のうちに「分類」をし続けている.さまざまな状況で人間はたえず分類することを迫られる.食べられるものと食べられないものが見分けられなければ生きてはいけないし,危険なものと安全なものがきちんと識別できなければ身の危険を回避することができない.「分類」する能力とは外界の中で人間が生き延びるためのすべである.

ヒトの心は進化の産物である.そして,ヒトが進化してきた過程で,周囲の世界や現象や存在物を整理し記憶し体系化するのが原初的な「分類思考」の姿だったはずだ.人間による分類行為のあり方に光を当てることは,生物としてのヒトがもつ心の深奥部を覗き込むことにほかならないと私は考えている.

分類学者たちは,これまで「分類される物」(すなわち生物・言語・写本など)がもつ性質を調べることにより最良の分類体系とは何かがわかると信じてきた.たとえば,カール・フォン・リンネによって近代科学としての幕を開けた生物分類学は,生物のもつさまざまな特徴に基づいて,「種(スピーシーズ)」などの分類カテゴリーを用いて整理をしてきた.しかし,「分類とはそもそも何か?」,「どんな分類が望ましいか?」,あるいは「分類された群は実在するのか?」というような問いかけを正面からすることは実は容易ではない.自分で自分を客観視することはいかなる場合もやりづらいからだ.

講談社現代新書の一冊として出した『分類思考の世界:なぜヒトは万物を「種」に分けるのか』では,分類される対象物が何であれ,人間が無意識のうちに発動させてしまう「分類思考」がいかなる性格を帯びているかを論じている.そもそも「種」とは何だろうか,「種」ははたして実在するのだろうか.この問題を論じるためには,単に生物学とその歴史だけでなく,認知心理学から文化人類学さらには哲学や形而上学まで論議の射程に入れなければならない.

私は,「分類する者」(すなわちヒト)の認知心理学的な性向が「種」を生み出したというテーゼを本書で掲げた.本来は連続しているものをわれわれヒトは切り分けて「離散化」してとらえ,そしてその離散化された分類群がさも自然界の中に実在しているかのように考えてしまう.それはヒトがもつ生得的な認知特性すなわち「心理的本質主義」によるものだ.ある生物から見た「外界」のことをヤーコプ・フォン・ユクスキュルは「環境世界(ウムヴェルト)」と名付けた.分類する者と分類される物とが複雑に織りなす「環境世界」の中に「種」は生まれ落ちたのだ.

ヒトが日々おこなう分類行為は心理的本質主義という「原罪」をつねに犯している.しかし,分類せずにはヒトは進化の過程で生き残れなかったこともまた事実である.分類するは人の常.しかし,その原罪の赦しを請う必要はない.


本稿は『週間読書人』2010年1月8日号(第二部・特集〈新書のすすめ〉)に同タイトルで掲載された.→ オンライン記事(CanPan)


Last Modified: 11 January 2010 MINAKA Nobuhiro