【書名】父さんのからだを返して:父親を骨格標本にされたエスキモーの少年
【著者】ケン・ハーパー(Kenn Harper)
【訳者】鈴木主悦・小田切勝子
【刊行】2001年08月31日
【出版】早川書房,東京
【頁数】357 pp.
【価格】2,500円(本体価格)
【ISBN】4-15-208365-4



【書評】※Copyright 2001 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

アメリカ人類学の「父」Franz Boas の前半生をたどった伝記である Douglas Cole (1999), "Franz Boas: The Early Years, 1858-1906"(Douglas & Macintire, Vancouver)によると,ドイツから移住してきた Boas がアメリカ自然史博物館の人類学セクションで進めようとしたプロジェクトの一つが「絶滅危惧部族」の研究だった.自らフィールドワークに出向いた北米インディアンやエスキモーの研究を通じて,Boas は地上から彼らが消え去る前に情報・資料を収集しなければならないと考えていたようである.探検調査団を組織するための資金とマンパワーを各方面から集めようとした Boas の精力的な活動が印象に残る.

北極探険家 Robert Peary は,アメリカ自然史博物館の創立者である Morris K. Jesup から多額の資金提供を受けていた関係で,探検旅行の行程で博物館に利する【資料】を探していた.Boas からグリーンランドのエスキモーを連れ帰るようもちかけられた Peary は「エスキモーの人類学的研究がもたらす学術上の恩恵は,博物館の大きな名誉となり,ひいてはモリス・ジェサップの虚栄心を大いに満足させることになる」(p.63)と考えた.Peary が6人のエスキモーをニューヨークに連れ帰ってきた背景には,関係者のさまざまな思惑があった.

もちろん,アメリカ自然史博物館としても,Peary が「6人」も連れてくるとは夢にも思わず,かれらの「処遇」が大きな問題となった.博物館の地下室で【展示】された彼らエスキモーは,異国の地で次々に病死していく(Jared Diamond の言う“germs”−このケースでは肺結核−のせいで).一人は機会を得て故郷に帰されたが,結局ニューヨークに残されたのは,父 Qisuk とともにアメリカにやってきて一人残された孤児 Minik だった.

博物館の職員によって養われることになった Minik は,成長するとともに父を含むエスキモー同胞が死後どのような「扱い」を受けてきたか,その真実を知ることになる.博物館の中で「偽りの葬儀」をされた父 Qisuk の遺骨は,博物館の【展示物】として飾られていた(pp.152-153).アメリカで教育を受け続けていた Minik はことあるごとに父の遺骨の返却を博物館に要求するものの,それは拒絶され続けた.

幼少時からアメリカに来ていた Minik は,エスキモー語("Ethnologue" 第14版[2000]によると,グリーンランド・エスキモー語は "Inuktitut" と呼ばれ,現在の話者数は Minik の母語である Thule 方言を含めておよそ4万人とのこと )をすでに忘れ,しかもアメリカ社会にももはや適応できなくなっていた.家出と逃亡の末に,いったんはグリーンランドに帰還するものの,母語を忘れ,故国の生活にもなじめなくなった Minik は再びアメリカに舞い戻るものの,その結末は....おそらく,Minik の境遇を描く脚本は,異国に放置され「根」を切られた「悲惨さ」よりはむしろ彼の最終的な「安らぎ」を描くことになるだろうと私は予想する.(顛末は本書を読むように)

《父さんのからだを返して》という Minik のたび重なる働きかけも,最後まで博物館に突っぱねられた.最終的に Qisuk を含む4人のエスキモーの遺骨がグリーンランドの故郷に埋葬されたのは−本書の出版(1986年)もその契機のひとつとなったのだが−ほぼ1世紀後の1993年のことだった.《彼らは故郷に帰ってきた》−しかしそれを働きかけた Minik 自身は,ピッツバーグの川辺に「最後の安息の地」(p.338)を見いだした.1918年10月29日,インフルエンザにより Minik Wallace 逝去.

Minik 自身がたどった運命はもちろん印象的なのだが,それ以上に,彼をグリーンランドから連れてきた北極探険家の Robert Peary そして,Peary にエスキモーを連れ帰るように依頼したアメリカ自然史博物館の人類学者 Franz Boas の果たした役割が興味深い.本書は,人類学研究のたどってきた経緯を背景にしながら,自然史博物館が19世紀末から20世紀初頭にアメリカ社会の中で果たした社会的役割に関する本でもあると思われる.

Franz Boas というのは「謎」の多い人物だ.ドイツで自然科学の教育を受けた彼は,ヘッケルの一元主義進化論に反発し,対極の文化決定論・文化相対論を主張した.ニューヨークのアメリカ自然史博物館の人類学セクションに職を得た彼は,同博物館および(後に移籍することになる)コロンビア大学を拠点として,アメリカ人類学の「father」として大活躍することになる.Ruth Benedict を指導し,Margaret Mead をサモアに派遣したのも Boas だった.Louis Menand (2001), "The Metaphysical Club" でも,アメリカにおける多元論の広まりと絡めて,Boas の人体測定学研究に基づく文化相対論の及ぼした影響が論じられている.

本書はもともとグリーンランドに隣接するバフィン島で細々と売られていたそうだ(p.18).バフィン島−それは Franz Boas が1880年代に1年あまりエスキモーの部族とともに過ごした場所でもある.Boas は自らが糸を引いたにもかかわらず,その後の経緯には関わりをもたなかったそうである(Cole, "Franz Boas", p.210).もちろん,彼らの研究グループは,連れ帰ったエスキモーの形質人類学的あるいは文化人類学的な研究は決して怠らなかった.Boas の伝記の著者である Cole は,エスキモーの処遇をめぐる Boas の「思慮のなさ」は,「フィールドにおける遺骨収集での彼の姿勢に通じる」と言う.

本書の多くの読者は,はからずもグリーンランドとアメリカを行き来させられたあるエスキモーの物語に感銘を受けるだろう.同時に,その背後にあったさまざまな個別事情−勃興期のアメリカ人類学,Franz Boas という人物の存在,自然史博物館の社会的地位と役割,「人種」観,そして擡頭しつつあった優生思想など−を考え合わせることにより,Minik の置かれていた状況を具体的に色づけることができるだろう.

グリーンランドからニューヨークにやってきた Minik,ガラパゴスからロンドンに連れられてきた Jemmy は,いずれも日本からは遠く離れた土地での話を提供する.しかし,日本にも同様の「話」はいくつもある.たとえば,もう絶版になっているが:

【書名】ゲンダーヌ:ある北方小民族のドラマ
【著者】田中了,D・ゲンダーヌ
【刊行】1978年02月20日
【出版】徳間書店
【頁数】303 pp.
【ISBN】4-19-801474-4

は,戦時中にサハリンで「皇民化教育」を受けた北方民族ウィルタのゲンダーヌを主人公にした本である.本書の続編である:

【書名】サハリン北緯50度線:続・ゲンダーヌ
【著者】田中了
【刊行】1994年12月
【出版】草の根出版会
【頁数】237 pp.
【ISBN】4-87648-097-4

は,いまでも入手できるだろう.

【目次】
序[ケヴィン・スペーシー] 17
はじめに 23
 1章 ピアリーの家来 27
 2章 鉄の山 44
 3章 アメリカ到着 59
 4章 ニューヨークで孤児になったエスキモー 76
 5章 アメリカ人ミニック 92
 6章 ウォレスの事件 108
 7章 詐欺 121
 8章 「涙の人生に運命づけられて」 134
 9章 父さんのからだを返して 144
10章 科学のために 156
11章 「とても哀れなミニックの境遇」 165
12章 「絶望的な流浪の境遇」 177
13章 北極計画 193
14章 逃亡 201
15章 「破棄できない契約」 217
16章 グリーランドへの帰郷 233
17章 ふたたびエスキモーとして 243
18章 チューレ基地 262
19章 ウィサーカッサク:大嘘つき 273
20章 指名手配:生死を問わず 279
21章 クロッカーランド探検隊 297
22章 ふたたびブロードウェイに 317
23章 北の国 330
エピローグ 340
あとがき 347
訳者あとがき 353


本書の原書はもともと1986年にカナダのマイナーな出版社から出ましたが,2000年にリプリントされ,広く注目を集めたとのことです.

関連URLは下記の通り:

Kenn Harper: "Give Me My Father's Body"
http://www.steerforth.com/books/give_me_my_fathers_body.htm
※ 出版元(Steerforth Press)のページ.Additional Links が参考になる.

Kenn Harper: The story of an Inuit specimen named Minik
http://www.infoculture.cbc.ca/archives/bookswr/bookswr_04072000_minik.phtml
※ 著者 Kenn Harper へのインタビュー記事

Americans catch Iqaluit historian’s passion for Minik tale
http://www.yukoncollege.yk.ca/~agraham/nost202/minik.htm
※ Nunatsiaq News, Iqaluit (April 28, 2000)の紹介記事

'Why Am I an Experiment?'
One Eskimo's unhappy encounter with Western civilization.
http://www.nytimes.com/books/00/06/25/reviews/000625.25limert.html
※ The New York Times Book Review (25/June/2002)の書評

備考)本書に序文を寄せているオスカー賞俳優ケヴィン・スペーシーの旗振りで,本書の映画化の計画が進んでいるそうである.