【書名】ダーウィンと家族の絆:長女アニーとその早すぎる死が進化論を生んだ
【著者】ランドル・ケインズ
【訳者】渡辺政隆・松下展子
【刊行】2003年12月10日
【出版】白日社,東京
【頁数】627 pp.
【定価】3,800円(本体価格)
【ISBN】4-89173-110-9
【原書】Randal Keynes 2001. Annie's Box: Charles Darwin, his Daughter and Human Evolution
Fourth Estate, London, xvi+331 pp., ISBN: 1-84115-060-6

【書評】※Copyright 2004 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

明かされた〈家族誌/家族史〉からダーウィン進化学の起源をたどる

本書は,チャールズ・ダーウィンを取り巻くダーウィン一族の〈家族誌〉であり,19世紀のイギリス社会の中で彼らがたどった〈家族史〉でもある.自宅を研究の場としてその生涯を送ったチャールズ・ダーウィンは日常生活と研究生活が深く密着していた.著者は,ダーウィンの家族との関わりが彼の自然淘汰説や進化観・生命観に深い影響を及ぼしていることを明らかにしようとする.読み進んでいくと,ダーウィン妻であるエマをはじめ,彼らの10人の子どもたち,そしてチャールズ側のダーウィン家とエマ側のウェッジウッド家双方の親類縁者が次々に登場する.チャールズ・ダーウィンひとりがこの伝記の対象ではない.家族と親族の全体に光を当てているのが本書のもっとも大きな特徴だ.ダーウィン=ウェッジウッド家の家系図が栞として訳書にはさみ込まれているのは,原書にはない心憎い配慮だと感じる.

ダーウィン家の〈身内〉には,チャールズ・ダーウィンの伝記作家あるいは史料編纂に携わった人たちが数多くいる.本書が献呈されている祖母マーガレット・エリザベス・ケインズはチャールズの次男ジョージ・ハワード・ダーウィンの娘だが,彼女はダーウィン家の回想録『A House by the River』(1976:未訳)を著わしている.またマーガレットの姉であるグウェン・ラヴェラもベストセラーとなった回顧録『思い出のケンブリッジ』(1952:翻訳1988)を出版している.本書の著者ランダル・ケインズは,この「親族伝記作家たち」の系譜の中ではもっとも若い世代に当たる.

〈身内〉の最大の強みは,家族にしかアクセスできないプライベートな資料あるいは家族内の伝承や会話の情報を自由に使えるということだろう.実際,本書の中で初めて明らかにされたダーウィン家の「家庭内事情」は少なくない.読者は,職業的科学史研究者によるダーウィン伝記とは一味も二味も異なる語り口を本書で味わうことができるだろう.プロの科学史研究者とは異なる文体になるのは,〈研究対象〉に対する親近感なり一体感が反映されているということだろうか.この本がグウェン・ラヴェラやマーガレット・ケインズの本と同じような「体温」をもっているのもうなずける.

ダーウィン家の〈家族誌/史〉を叙述する本書の中でひときわ鮮やかなスポットライトを浴びているのが,チャールズとエマの長女アニー(アン・エリザベス・ダーウィン)だ.1841年に生を受け1851年に結核(と著者は推測する)のためわずか10歳で亡くなったアニーはダーウィン家の中でもことのほか愛されていたという.ダーウィン夫妻のロンドンの新居でアニーは生まれた(第1〜3章).子煩悩だったチャールズは次々に生まれる子どもたちを溺愛したという.アニーが生まれた1年後に,ごみごみしたロンドンの市中を離れ,郊外のダウンに新居を定めたダーウィンは,家族とともに新たな生活=研究の場を築いた(第4〜6章).ダーウィン家の日常に視点が置かれた記述は,当時のイギリス上流階級の生活・教育・交際・文化・信仰について多くのことを教えてくれる.とくに,敬虔なエマと信仰心の薄いチャールズとの微妙な関わりあいが随所に現われている.文面から伝わってくる長男ウィリーと長女アニーを筆頭とする子どもたちの活発さは本書を読み進む愉しみでもある.

本書前半に描かれるダウンでの生活が〈生〉の象徴であるとするならば,後半の舞台となる保養地モールヴァンの地は〈死〉を予期させる.

1840年に始まる原因不明の持病に長く苦しんでいたチャールズは,1849年からは王室御用達の高級保養地モールヴァンに滞在して,ガリー医師による水療法を受けていた(第7章).アニーが体調を崩したのは1850年のことである.方々の医師に診てもらったあげく,チャールズはアニーをモールヴァンに連れていくことを決意する(第8章).しかし,その効もなく,翌1851年にアニーはモールヴァンで息を引き取り,ダーウィン夫妻は立ち直れない悲しみに打ちひしがれた(第9章).著者は,アニーのたどった病状を現代医学の観点からもう一度見直し,当時のイギリスで子どもの死病としてもっとも恐れられていた結核がアニーの命を奪ったのだろうと推察する(第11章).

ここからが本書の核心である――アニーの死はダーウィン家にどのような影を投げかけたのか,そしてダーウィン進化学にとってどのような意味をもつものなのか.アニーの死後間もなくチャールズが残した手記が第10章の最後に翻訳されている(pp.374-382).生前のアニーの想い出を記した父チャールズの弔文は何度読んでも心を打たれる.「あの子にお恵みを」(Blessings on her)――信仰心の乏しいチャールズにして,この結びの言葉.いったい何が彼の脳裏をよぎったのか.そして,彼は何をふっきったのか.

生物の「死」は,「神」や「罪」とは何の関係もなく,自然の過程のひとつにすぎないのだというチャールズの秘めたる信念は(pp.368-369),アニーの死によって「最後の一押し」を受けた――「悪魔に仕える牧師」(Devil's chaplain)はこうして出現した(p.428).著者は,『種の起源』に代表される著作や書簡を傍証として挙げながら,アニーの死がそれらに色濃く反映されていると指摘する.チャールズにとっての〈家族〉が彼の思想形成にどれほど大きな影響を及ぼしたかを私は再認識した(第12章).

第13章以降は,後年のダーウィン家の生活の中でアニーの記憶がどのように受け継がれていったかをたどっている.著者は,人間の由来,心と感情の進化,神と信仰をめぐる問題に関するチャールズの見解を取り上げつつ,亡きアニーや家族が投げかけた光と影を見出そうとしている.チャールズが1882年に死ぬまで,信仰をめぐるダーウィン夫妻の「隔たり」は埋まることがなかったのだろう.しかし,アニーはチャールズだけでなくエマの中にも生き続けた――本書全体を締めくくる末尾でそれは明かされている.1896年に88歳の天寿をまっとうしたエマの遺品の中に【アニーの文箱】が見つかった.それは45年前のアニーの死の直後に,エマが亡き子の想い出の品々を詰めた文箱だった.

【アニーの文箱】に詰まっていたのは「もの」だけではない.ダーウィン夫妻にとっての記憶もそのまま封印されていたということだ.著者が祖母マーガレット・エリザベス・ケインズ(「M.E.K.」)に捧げた献呈ページ(p.18)の下にはこう書かれている――

「小箱を定義するとしたら,“もう誰も覚えていない遊戯”,詩の世界にあるような魔法の“可動部”付きの現実離れした玩具のようなものと言ってもよいかもしれない」――ジョーゼフ・コーネルの日記(1960)より

手元に,詩人チャールズ・シミックの新刊『コーネルの箱』(2003年12月10日刊行,文藝春秋,ISBN: 4-16-322420-3)がある.【箱】の芸術家として知られるジョゼフ・コーネルの作品にシミックがエッセイを付けた本だ.この本にもコーネルの〈日記〉からの引用がある――

  • 「妄執[オブセッション]に形を与えようとする懸命の企て」[p.10]
  • 「すべての些細な物に意味がみなぎる,完璧な幸福な世界に没入していく」[p.52]

【箱】に詰めるというのはそれほど象徴的な行為なのだろう.〈家族誌/史〉の問題としていえば,ダーウィン夫妻にとって10歳で身罷ったアニーはある意味で「偏愛・妄執」の対象だっただろうし,ケインズの本は確かにその通りだという確信を強めるものだった.エマが亡き娘の遺髪や遺品を愛用の文箱に納める場面(pp.372-373)は,その【箱】が〈身内〉にとって特別な意味をもつものという印象を読者に刻印する――

小さな箱は子供のころを覚えている
そして切ない切ない願いによって
彼女は再び小さな箱になる.
[『コーネルの箱』p.89:ヴァスコ・ポーパの詩から]

そう,【アニーの文箱】は確かに【コーネルの箱】だった.

600ページを越える大著だが,いつものように読みやすい訳文は,心地よく満ち足りた「活字正月」を満喫させてくれた.

三中信宏(3/January/2004)


付記)気付いたミスは――

  • P.9:×「『思い出のケンブリッジ』(Period Piece)の著者でもあるジャック・ラヴェラと結婚」→○「〜著者でもある.ジャック・ラヴェラと〜」
  • P.421:×図キャプション「1950年代半ば」→○「1850年代半ば」
  • P.577:×「『ケンブリッジの思い出』の訳者」→○「『思い出のケンブリッジ』の〜」
  • P.584:×注14「E.A. ランケスター」→○「E.R. ランケスター」


【目次】
家族と友人リスト――9
まえがき――19

第1章 金剛インコの館 23

エマ・ウェッジウッドとの結婚/ロンドンの新居/第一子ウイリーの誕生(一八三九年十二月)/持病のはじまり/長女アニーの誕生(一八四一年三月)/一八四一年五月のウェッジウッド屋敷/子どもを溺愛

第2章 翼竜のパイ 49

"種の理論"への道のり/『自然神学』/地質学がつきつけた『自然神学』への疑義/『自然哲学』/セジウィックの調査旅行に同行/ビーグル号の旅/ブラジルの黒人奴隷/ティエラ・デル・フエゴの未開人/アイデアを書き留めた六冊のノート/ワーズワースの詩と科学/チンパンジーのトミー/オランウータンのジェニー/英国地質学会の書記に/「われわれは共通の祖先をもつのではないか」/動物園でジェニーを見る

第3章 赤ん坊の自然史学 93

記憶と感情の考察/聖書の"歴史的記述"への疑問/人間の道徳観は「神の意志の表れ」ではない/動物にも好き嫌いはあるのか/「自然淘汰」がひらめく/良心は「遺伝する総合的な情念」/「愛情」が鍵を握っている/聖書への疑念をエマに打ち明ける/信仰あつき婚約者エマの悩み/道徳的感情とは/信仰に関する夫婦間の「辛い溝」/赤ん坊ウィリーの感覚や反応を観察/長女アニーの観察/肖像画から肖像写真へ

第4章 幼いクロコダイル 131

郊外に新しい家を探す/そこはかつて恐竜が生きていた地/ウェッジウッド工場近くで労働者の暴動が発生/ダウンハウスへ引っ越す/迷子事件/新居の改築/八人の子供と召使たちに囲まれた生活/乳母ブロディ/執事パースロー/切り絵と童謡/植物学者フッカーとの出会い/進化に関する試論/苦痛はなぜ存在するのか/種に関する理論を書き終える/アニーとウィリーの読み書きの勉強/温厚な長男、快活な長女、心配性の次女/子供に鷹揚な妻エマ/子供たちの良き遊び相手ダーウィン/動物の本

第5章 ギャロップの調べ 175

"暴力的な昼食会"/部屋じゅうを飛び回る子供たち/家畜たちと遊び植物を育てる/ラボック家の長男ジョン/サンドウォークの散策/父親ダーウィンと子供たちの世界/ダーウィンの兄エラズマス/植物学者ジョーゼフ・フッカー/当時の新聞、雑誌、単行本/アメリカへの移住も視野に入れる/ダーウィン家の教育観/ウェッジウッド家の教育観/ルソー思想で教育されたダーウィンと妻エマ/『光学の話』/娘たちの家庭教師ミス・ソーリー/ミス・ソーリーとダーウィンの植物学研究/アニーの針仕事と習字/アニーの文具箱の中身/残されたアニーの手紙

第6章 信仰、クリケット、フジツボ 223

村人はダーウィンに親しみを込めて挨拶した/動物虐待で訴訟を起こしたダーウィン/妻エマの確固たる信仰/教会における信仰の不一致/村の反国教徒/ダーウィンのキリスト教への不信/不信心家として逝ったダーウィンの父親/キリスト教信仰を捨てる/フジツボの研究/ダーウィンの実験道具/"神の設計図"でなく「共通の祖先」/雌雄同体から雄と雌への進化/フジツボの変態と生物進化

第7章 遠い世界 257

ウェッジウッド家の長男ジョーの家族/二男ヘンズリーと妻ファニーの華麗な交友/工場を継いだ末弟フランク/製陶工場で働く子供たち/持病に悩むダーウィン/モールヴァンでの水療法/モールヴァンの治療に集まる著名人/モールヴァンに向かうダーウィン一家/ガリー医師の治療/モールヴァンでの優雅な生活/健康を回復したダーウィン

第8章 子供のむずかり 285

八人目の子供レオナードの誕生/アニーが子供たちのリーダーになる/アニーの発病――一八五〇年六月末/アニーを海水浴に出す/ロンドンの医師の診察を受ける/アニーの治療をガリー医師に委ねる/ダーウィンによる愛娘アニーの観察記録/子供のむずかりは永遠の悪なのか

第9章 モールヴァンでの別れ 311

アニーの治療のために再びモールヴァンへ/万国博前のロンドン/幸せな日々/アニー、激しく嘔吐/動揺するダーウィン/やつれるアニー/出産を控えた妻エマへの手紙/アニーの尿を抜いてもらう/「かわいそうなぼくの幼いアニー」/アニー、永遠の眠りに

第10章 喪失と思い出 345

妻のためにダウンハウスに戻る/アニーの弔い/もとと同じ日々、新たな生活/救いとしての死/神の罰としての死/救いとならない死/死はすべての終わりか/自然の出来事としての死/信仰心に差のある夫婦のため……/ダーウィンにとっての神とは/エマによるアニーの覚え書き/アニーの遺品/ダーウィンの記憶/アニーをめぐるダーウィンの手記

第11章 死病 383

アニーの病気は何だったのか/十九世紀半ばの肺病/子供の肺病は死刑判決に等しかった/ディケンズが描いた肺病/結核で苦しむ若者たち/アニーが肺病である懸念/病気と遺伝/予防医学の芽生え/死因の六分の一が結核だった/病原体と共進化

第12章 種の起源 407

種の理論に没頭するダーウィン/再び肖像写真の撮影/アニーの死に動揺する妹エティ/封印されたアニーの想い出/意識と阿片中毒者/チック症/家族以外にもらした愛娘アニーへの想い/愛娘アニーの死がダーウィンの背中を押した/自然淘汰/ダウン症だった最後の子供の死/子供の死が『種の起源』を変えた/自然の豊かさへの驚き

第13章 オランウータンまで徹底的に行く 443

類人猿とヒト/ヒトが類人猿と親戚であることへの嫌悪感/ライエルの葛藤/ライエルの本心/好意的な反応もあった/ウォレスの主張/ダーウィンの沈黙/有機論

第14章 神の刃 467

神の配剤はどこにあるか/病気に対する強迫観念/フッカーへの手紙も書けないほどに/ひどい気分の落ち込み/献身的な妻エマの信仰/ダーウィンの既存宗教への不信/超自然現象の信奉者たち

第15章 人間の由来 497

人類の起源に関する試論/人間と動物の心の比較/「親子の愛情は自然淘汰によって発達した」/共感のなせるわざ/道徳心の起源/道徳心と愛情も悲劇をもたらす/「社会ダーウィニズム」への反論/精神科医モーズリーの議論/感情と行動/心と体の不思議なつながり/心理学と人類進化/心の起源とは

第16章 つましきものへのこだわり 529

回想録を執筆/「苦痛」は意味があるのか/初孫誕生/猿の姿をしたダーウィン/「心がからからに乾いてしまった」/湖水地方への旅/ファーブル『昆虫記』/ミミズの研究/神は存在するか/兄エラズマスの死/人間の脳にも限界がある/悲喜こもごもの来訪者/狭心症の発作/「死ぬことはちっとも怖くないよ」/妻エマの「宝の包み」/ケンブリッジで暮らした晩年のエマ/ダウンハウスの想い出/エマもダウンハウスで他界

解題――進化学を育んだ家[渡辺政隆] 571

原註 [611-583]
図版出典一覧 [613-612]
索引 [627-614]