【書名】イヴの卵:卵子と精子と前成説
【著者】クララ・ピント-コレイア
【訳者】佐藤恵子
【刊行】2003年04月15日
【出版】白揚社,東京
【頁数】381 pp.
【定価】4,700円(本体価格)
【ISBN】4-8269-0112-7
【原書】Clara Pinto-Correia 1997.
The Ovary of Eve: Egg and Sperm and Preformation.
The University of Chicago Press, Chicago.



【書評】※Copyright 2003 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

一次資料を踏まえた詳細な歴史記述はもともとぼくの好みなのだが,本書もまた成功した歴史書の1冊に数えられる.明らかに著者の傑出した筆力の賜物だろう.「生物学史なんか古臭くてつまらない」と思いこんでいる読者は,本書を手にしてきっとその考えを改めたくなるにちがいない.キュヴィエ vs ジョフロワの1830年論争を詳述したアペル『アカデミー論争』(時空出版,1990)のような読後感をもった.こういう書物は「脚注」をひとつひとつ舐めるのが美味である.

 発生生物学史の片隅で何世紀にもわたってその息吹を絶やさなかった学説――「前成説」のみをテーマとする本書は,その専門的内容にもかかわらず,まるで小説のように登場人物とプロットを楽しめる構成になっている.個体発生における前成説は「すべての生ける存在は,ロシア人形のように先祖の体の内部にあらかじめ出来上がって」(p.17)いると主張し,発生の過程で新しく構造がつくられていくとみなす後成説と鋭く対立した.教科書的には,前成説は後成説に敗北を喫し,表舞台から消えていったことになっている.しかし,著者はそのような通説に抗して,生殖と発生に関するわれわれの知見を大幅に前進させた「前成説論者たちに心から感謝しなくてはならない」(p.314)という.そして,この持論を展開するために,3世紀前にまでさかのぼる一次資料の掘り起こしを行なった.

 前成説 vs 後成説は,本書の内容全体が含まれる大きな対立図式である.しかし,本書の中心テーマは,前成説の派内で繰り広げられた,より先鋭な対立である「精子派」vs「卵子派」の論争がどのように繰り広げられていったかに置かれている.おおもとは「イヴ」だったのかそれとも「アダム」だったのか――前成説内のこの対立について,著者は学問的のみならず宗教的・文化的・社会的次元にまで論議の幅を拡大している.

 現代からみれば前成説(無限入れ子説)がどれほど荒唐無稽であったとしても,17世紀当時にあっては,神秘的な「形成力」に依拠する「機械論」的な後成説に比べて,前成説の方が経験的にはむしろ妥当な説明理論だった.そして,イタリアやオランダを中心にして,発明されたばかりの顕微鏡が明らかにしたミクロの世界がもたらす宗教的意味と前成説論争への波及に触れつつ,著者は先入観や概念が観察に及ぼした負荷性を見出そうとする――

 レーヴェンフックによるアブラムシの単為生殖現象の発見が当時の「処女懐胎」論に貢献したというエピソード(第3章)や,奇形学が前成説にダメージを与えたことはなく,むしろ再生現象の方がアノマリーだったという指摘(第4章),イコンとして流布した前成説の「ホムンクルス」像は決して当時の前成説論者が用いたことばではなく,1930年代になってはじめて広まった誤解だったという事実(第6章),そして無限入れ子説を背後で支えていたのは17世紀当時に熱病のように流行った「数量化の狂乱」(第8章)など,多くの通説・俗説が次々に打ち破られ,真相があばかれていくさまは爽快でさえある.

 過去のある生物学論争の全体像を復元した本書は,当時の科学を取り巻いた要因を次々に俎上にあげ,前成説が派の内外でいかなるバイアスにさらされてきたか,そして現代の生物学史がそれらの歴史的バイアスを介して前成説論争に対するどれほど誤ったイメージを抱くにいたったかを示した.現代から過去を遠目に見るのではなく,タイムスリップして当時に身を置いてはじめてその意味が理解できる歴史的事象があることに気づかされた.

 著者の関心はヨーロッパだけでなく,中国や日本の生殖・発生思想にも向けられている.前成説論争が彼の地で最高潮だった18世紀頃の日本を振り返ると,ちょうど安藤昌益が『統道真伝』を表わし(1752年),三浦梅園が『玄語』を書き進めていた期間(1780年代)がそこに含まれる.これらの孤高の思想家たちはそれぞれ陰陽五行思想に導かれつつ,「気の和合」が生殖の根幹であると考えていたようだ.洋の東西をまたいだ生殖・発生に対するものの考え方の対比は確かに興味深い.

 随所にイメージ文化論に関わる記述が見られる.「♂/♀」という記号は,宗教的イコンとしては神&惑星である「火星(マルス)/金星(ヴィーナス)」を意味し,錬金術の世界では「鉄/銅」をそれぞれ意味していたのだとか(第7章).知らなかったあ.

 よくできた翻訳で,さぞ苦労が多かっただろうと思われるが,原書の通り,人名だけでなく事項を含む総合索引をぜひ付けてほしかった.


【目次】
はじめに 5
プロローグ:知る勇気 15
1.イヴのすべて 29
2.アダムのすべて 75
3.風は目に見えない 114
4.前途有望なモンスター 143
5.パンツをはいたカエルたち 188
6.Hのつく言葉 215
7.天球の音楽 246
8.魔法の数字 277
エピローグ:結局決着はつかないのか 305
訳者あとがき 315
原註 [323-347]
参考文献 [348-365]
文献索引 [366-371]
人名索引 [372-381]