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【書名】生物体系学
【著者】直海俊一郎
【刊行】2002年05月08日
【出版】東京大学出版会,東京
【叢書】Natural History Series
【頁数】xii+337 pp.
【定価】5,200円(本体価格)
【ISBN】4-13-060180-6
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【目次】
はじめに――生物体系学:その新たなる出発 i

第1章 体系学(systematics) 1
1.1 理論と学問 2
1.2 体系学における多元論 7
1.3 従来の classification, taxonomy, phylogenetics および systematics 12
(1) Classification 12
(2) Taxonomy 15
(3) Phylogenetics 18
(4) Systematics 21
1.4 Classification, taxonomy, phylogenetics および systematics の訳語 26
1.5 新しい生物体系学 32
(1) 分類学,系統学および狭義体系学の定義と構造 32
(2) 系統学と狭義体系学の活動――新しい生物体系学の提唱 45
(3) 生物体系学の重要な分野としての分布学と歴史生物地理学 55
(4) 広義体系学の構造――5分科の関係と仕事 67

第2章 体系学の歴史と様々なアプローチ 77
2.1 プラトンとアリストテレスの分類へのアプローチ 77
(1) プラトン 78
(2) アリストテレス 81
(3) 中世のリネーウス時代の分類の背景をなした哲学は
アリストテレスの本質主義か 85
2.2 リネーウスの生物分類とプラトンに源を発する類型学 87
(1) スコラ流の論理学と論理的分類 90
(2) リネーウスの生物分類と論理的分割 93
(3) プラトンに源を発する類型学 96
2.3 慣習分類学 98
2.4 進化体系学 102
(1) 進化体系学の確立 103
(2) 進化分類 105
(3) 形質整合性分析と凸表形学 109
(4) ‘進化する’進化体系学 115
2.5 数量表形学 118
(1) Adanson の自然分類 119
(2) Adanson の自然分類と Beckner の多型概念 121
(3) 20世紀前半における Adanson流の自然分類 124
(4) 20世紀後半における数量表形学 125
2.6 分岐学 132
(1) 観念論形態学・類型分類学から W. Hennig の『系統体系学』へ 133
(2) 『系統体系学』における系統学革命 144
(3) 分岐学の変容 154
(4) 2つの現代分岐学の学派―― Hennig 分岐学と最節約分岐学 166

第3章 分類学(taxonomy) 176
3.1 生物分類の手順 177
(1) 個体をまとめて種を認識する 178
(2) 種を一群の種や種より上位の分類群にまとめる 179
(3) 分類群の階級を決定する 180
(4) 分類群を中立用語を用いて区分けする 182
3.2 リネーウス式階層分類 183
(1) リネーウス式階層分類 183
(2) 分類カテゴリーと中立用語 186
(3) 分類群 195
(4) タイプ法 200
(5) 分類群の名前 201
3.3 生物をいかに記載・分類するか 207
3.4 生物分類の実践――メダカハネカクシ属の種分類 223
(1) メダカハネカクシ属の種分類のための有用形質 223
(2) メダカハネカクシ属の種分類の実践 228
3.5 分類学の積極的評価 233
(1) 分類学は生物学にとって不可欠な学問である 234
(2) 分類学は系統学の基礎学問である 237
(3) 優れた記載とはどういう記載のことであるか 238
(4) 記載論文をおもしろくするために分類学者は何をすべきか 239
3.6 分類学者が試みた系統学的研究における諸問題 242
(1) “素朴実在論的アプローチ”をめぐる問題 244
(2) “主観主義的アプローチ”をめぐる問題 253
(3) “発見”をめぐる問題 259

第4章 分布学(chorology) 268
4.1 分布学とはどういう学問か 269
4.2 分布学の研究 275
(1) 種および亜種の分布の研究 276
(2) 地域個体群の分布の研究 284
(3) 高次分類群の分布の研究 285
4.3 ブチヒゲハネカクシ属の研究をとおして分布学の重要性を知る 288
(1) ブチヒゲハネカクシ属の分布学的研究 288
(2) 分布学的研究の限界 291
(3) 分布学の重要性 297

おわりに 298
引用文献 303
索引 328
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【感想】
新たな進化体系学から生物分類を見直す試み

三中信宏(農業環境技術研究所主任研究官)
フィーリング番号【3】※元気になる分類学!

 生物分類学は,地球上に存在する(した)膨大な生きもののカタログをつくるという大事業を進めてきた.本書の著者は「生物を発見し,記載するという使命」(p.302)が分類学者にはあるのだと言う.確かにその通りだ.地球的な規模での絶滅のリスクが高まる現在,生きものが消滅する前にその存在記録を与えることは急務だ.
 本書は,生物分類学の現場での仕事をふまえて,分類の理論,実践,問題点,そして将来ビジョンを描きだした本である.著者自身によるオリジナルな考えがいたるところに見られ(とくに第1章),生物形態を記載する分類学および地理的分布を記載する分布学が「非時間的学問」(p.70)と規定されるなど,きわめて刺激的な内容を含む.
 ただし,生物分類学・生物地理学の基本的な理論構造を分析し,新しい分科体系を提唱する第1章から読み始めるのはきつい.むしろ,著者が長年にわたって携わってきたハネカクシ類(昆虫)の分類研究事例が含まれる第3章(分類学)と分布学(第4章)の方がむしろ取りつきやすいだろう.その後,第2章の科学史的記述を通して,ギリシャ時代以降の生物分類学がたどってきた道のりを振りかえると,著者がなぜいま生物分類学の再興が必要であると確信するようになったのかが見えてくる.そして,最後に,もっとも哲学的な内容をもつ第1章に戻れば,著者の目指す「新しいタイプの進化体系学」(p.55)がどのような文脈のもとで構想されるにいたったのかがきっと理解できるだろう.
 本書の最初の構想は20年あまり前にさかのぼると著者は告白する(p.298).実際に生物分類の現場に身を置きながら,学問としての生物分類学のあり方について徐々に思索を重ねた産物が本書であると私は感じる.決して読みやすい本ではないが,生物多様性に関心をもつ一般の読者に,そして将来を担う「若手分類学者を対象として」(p.208)向けられた著者のメッセージを正面から受け止めたい.

人間は誰でも「分類」をし続けている.食べ物や本を分類することは,ごく日常的な営為だ.ふだん目にする生きものならば,けっこううまく分類してしまう.分類することは,生物・無生物を問わず,周囲にある雑多なものを頭の中で整理するために備わっている,たいそう便利な能力だと私は考えている.

分類は確かに役に立つ.



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<Review> 直海俊一郎 (2002)『生物体系学』東大出版会 (1)
EVOLVE reader 諸氏:

三中信宏です.

直海さんの新刊『生物体系学』を2回ほど読み直し,言うべき論点が定まってきましたので,順次 EVOLVE 版の書評をまとめていきたいと思います.

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【書名】生物体系学
【著者】直海俊一郎
【刊行】2002年05月08日
【出版】東京大学出版会,東京
【叢書】Natural History Series
【頁数】xii+337 pp.
【定価】5,200円(本体価格)
【ISBN】4-13-060180-6
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著者は「多くの読者がこの学問の構造と論理に興味をもち,それらを建設的に批判してくれることを心から願っている」(p.300)と言います.すでに一般読者向けの書評で書いたように([9320]),私も「著者のメッセージを正面から受け止めたい」と考えます.体系学(systematics)はそれだけの価値のある学問だと思うから.

日本の生物体系学者のほとんど全員は「哲学」(広義)に無関心なのではないか,あるいは彼らはそういう「りくつ」は口にしないのが美徳であると考えているのではないかと私はつねづね感じているので,本書の出版はその意味ではインパクトが大きいと思われます.

私の EVOLVE 版書評は全体としては批判的です.著者は基本的に哲学を誤用していると私は感じるし,体系学の歴史の論議では著者の科学観にも違和感を覚えます.体系学の理論に関わる箇所では基本的な誤解も散見されます.賛同的な書評に比べて,批判的な書評にはエネルギーが必要です.建設的な批判をするためには,個別具体的な論点にそのつど踏み込む必要があるからです.

以下では,具体的に書いていきますので,本書を買っていない方はまずは書店に直行するように.まだ読み終っていない方はいっそう読書に励むように.

そう言えば,「EVOLVE版書評を読んでから買うかどうか決めたい」というメールも来ていたなぁ.EVOLVE版書評の「催促」メールも北米から来ていることだしぃ.こりゃ責任重大だ.

『生物体系学』を読んで私がもっとも強く感じる点は,本書が「饒舌」にもかかわらず,真に語るべきことを回避しているのではないかと思われることです.分類とは何か,種とは何か,なぜ形態なのか,哲学との関わりなど,本書の核心には生物体系学の最重要テーマがずらっと並んでいるにもかかわらず,それらに関する実質的な議論が不足しているのは不思議なことです.私としては,むしろ著者がなぜ「沈黙」するのかに関心が向きます.

というわけで,EVOLVE版書評のタイトルは:

「饒舌な沈黙」が示すもの

ということに決定!


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<Review> 直海俊一郎 (2002)『生物体系学』東大出版会 (2)
EVOLVE reader 諸氏:

三中信宏(農環研)です.

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「饒舌な沈黙」が示すもの(1)――多元主義の甘い蜜
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おそらく「第一原理」にあたる格率を明言することは,カントやハーバート・スペンサーでもないかぎり,めったにしないことかもしれない.しかし,生物体系学がどのような原理に基づいているのかを深く議論することが,本書の設定するもっとも重要なテーマだと私は思う.もしそうならば,体系学の「第一原理」はやはり明示的に論議するべきではなかっただろうか.

本書の「第一原理」はさりげなくその姿を表す:

私が生物体系学を論じる背景には必ず穏やかな多元論が横たわっているから,多元論は本書の重要なキーワードなのである.(p.2)

伏線は張られた.にもかかわらず,その第一原理――「穏やかな多元論」――は,すぐに舞台袖に引っ込んでしまう:

‘多元論(pluralism)’という用語自体は,全章をとおしてほとんど出てこない.(p.2)

確かにその通りだ.しかし,「多元論」は,本書全体を通して,ことあるごとに舞台上から「スカイフック」を降ろす【黒衣】として振る舞うことを読者は思い知らされる.しかも,表舞台に出てこないだけに,なおさらやっかいである.

体系学がなぜ多元論を必要としているのか――著者の説明は簡潔である:

生物学の研究においても,物理学と同様に,諸々の問題や事象の領域を統一的に説明しようとする一元論(monism)を前面に押し出すことは,研究者がとるべき戦略として間違いではないかもしれない,しかし,やみくもに統一的理論を探求するという単純な戦略では,生物界のなかに実在する多様性に立ち向かえない状況にきていることは間違いないようだ.このことは,Beattyが1994年に提唱した理論的多元論(theoretical pluralism)の論文を読めば,一目瞭然である.(pp.7-8)

私は,Beattyの論文を含む論文集(Grande & Rieppel 1994)の書評記事をかつて書いたことがある(三中 1994).もちろん,Beattyの論文も読んだ上で,彼の言う「多元論」は根本的に不毛だと評した:

現在の系統推定論の領域に見られるいくつかの方法論の共存状態をそのまま認めるBeatty(第3章)の「理論多元論」(theoretical pluralism)も得るものが乏しい.(三中, 1994: 365)

その理由は? Beattyの言う理論的多元論(あるいは Rieppel & Grande の「方法論的多元論, p.239」)によれば,ある生物学的現象を説明するために併走する複数の理論の共存状態をそのまま容認する(Beatty, 1994: 36-37).Beattyを支持する著者は,理論共存の例として挙げるのは,下記の状況だ:

現代分岐学の方法論の根底には,最節約基準が横たわっている.しかし,その最節約性も,Fitch, Wagner, Dollo, Camin and Sokal の最節約など,いくつもの種類がある.より広い系統学という分野に目を移すと,最節約性に代わる基準,つまり,形質分布を最もよく説明する系統仮説がどれであるかを選択する基準が,いくつもある.つまり整合性(compatibility),距離(distance),最大尤度(maximum likelihood)である.これらの代わりの基準は,進化の道筋を別なやり方で正当化することによって,形質分布の領域について別のタイプの理論的説明と調和している(Beatty, 1994, p.42).

系統推定にさまざまな方法論があることは事実である.しかし,それらの共存状態を「理論的多元論」と表明することで,何か得られるものがあるのだろうか? 最節約基準ひとつをとっても,著者が挙げるうち,DolloやCamin & Sokal基準は形質進化に対する非現実的な仮定を強制することで,実際にはまず用いられない.系統推定の現場で重要なことは,どのような状況でそれぞれの系統推定法がどういう挙動をするのか,バイアスに対する補正が可能かどうかを,経験的に調べることだと私は考えている.

著者は「方法論的多元論」(p.11)を標榜することで,複数の理論の共存を許容するスタンスを取ろうとする.しかし,そのスタンスは単に理論の複数性の存在を追認しただけで,経験的に見て何一つ問題を解決できていない.せっかく,Maddison & Maddison の警句「どの方法も成功するかどうかは,進化の過程の性質にかかっている」(p.9)という点を指摘しながら,著者は方法間の経験的評価ではなく,多元論という哲学に逃げ込んでいる.私が多元論は「貧困」だとみなすのは,まさにこのような態度である.経験的に議論できる論点をいたずらに「哲学扱い」しても非生産的ではないか.

もうひとつ,系統推定の方法の共存を「理論的多元論」の枠組みで論じるのは,著者の論旨に矛盾すると私は思う.体系学における理論とは「統計的法則,あるいは近似的法則,傾向,趨勢についての命題」(pp.2-3)を含む法則群であると著者はみなしている.この定義はとくに問題ないだろう.しかし,上述の系統推定論の諸方法が,この意味での「理論」であるとは私には考えられない.この点は,Beattyも直海もともに誤っていると私は思う.系統推定の方法は過去の系統発生に関する「推定手法」ではあっても,「法則」ではありえない.これは,解釈うんぬんではなく,単純に定義の問題である.Beatty-直海の理論的多元論は,容易に拡大解釈される危険性がある(実際,拡大解釈されている).

この拡大解釈はまちがった結論を導く:

複数の異なった方法によって同一の対象生物群の系統を調べたとき,同じ結果が得られるならば,それは‘唯一’の系統が存在するという,より確かな証拠となるし,そのようにならなければ,この世界で唯一の系統の存在をもちだしても,あまり益にならない,ということがわかるからである.(p.10)

それぞれの方法の経験的な挙動を論じる前に,結論が一致すればOKという立論は私の許容範囲を大きく越えている.さらに:

複数の方法が異なった系統樹を支持したときに限り,生物世界(系統)の多元性が認められるということになる.複数の方法が同一の系統樹を支持したときは,その単元性が認められる.(p.11)

などという乱暴な議論にいたっては,著者の念頭にある多元論はほとんど妖怪化していると言わざるをえない.多元論/単元論が系統推定の結果(データ依存)によってころころ交代するというのは,認識論と存在論とをむりやり一致させようとする行為だと私は考える.そんなのムリだよ.

著者の立論に沿って,本書全体のベースとなる「多元論」について批判してきた.生物学哲学の世界では,過去に種概念や自然淘汰単位に関する多元論論争が繰り広げられてきた.多元論が最高度に【取扱注意】の概念であることは,よく知られている.種概念に関する多元論を支持する Philip Kitcher を一貫して批判し続けた Elliott Sober が自然淘汰の複数レベル理論の提唱(Sober and Wilson 1998)にあたって,どれだけ細心の注意を払って,誤解されないように「多元論」を構成していったかをわれわれは知っている.

それに比べれば,直海の「多元論」は雑駁すぎる.なぜそうなってしまったのか.「穏やかな多元論」という最初の登場のさせ方がきっとまちがっていたのだろう.多元論は「穏やか」であってはならない,むしろ幾重にも制約を設け,厳しすぎるくらいの枷をはめて,はじめてその暴走をくいとめられるのだと思う.

将来にわたって,多元論はわれわれがその反駁を試みるべき‘帰無仮説’なのだ(Sober 1984: 341)

多元論は,決して第一原理とはなりえない.

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以上,第1章第2節までの書評でした.(先は長いぞ!)

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参考文献
Beatty, J. 1994. Theoretical pluralism in biology, including systematics. Pp.33-60 in: L. Grande and O. Rieppel (eds.), Interpreting the Hierarchy of Nature. Academic Press, San Diego.
Rieppel, O. and L. Grande 1994. Summary and comments on systematic pattern and evolutionary process. Pp.227-255 in: L. Grande and O. Rieppel (eds.), Interpreting the Hierarchy of Nature. Academic Press, San Diego.
三中信宏 1994. 系統関係から進化過程を推論する. 海洋と生物, 16(5): 364-365.
Sober, E. 1984. Discussion: Sets, species, and evolution: Comments on Philip Kitcher's "Species". Philosophy of Science, 51: 334-341.
Sober, E. and D.S. Wilson 1998. Unto Others: The Evolution and Psychology of Unselfish Behavior. Harvard University Press, Cambridge, xii+394pp.

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<Review> 直海俊一郎 (2002)『生物体系学』東大出版会 (3)
EVOLVE reader 諸氏:

三中信宏(農環研)です.

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「饒舌な沈黙」が示すもの(2)――「科学の分類」は何のため?
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第1章の中の1.3〜1.4節は,分類・分類学・系統学・体系学の定義と訳語に関する歴史的な経緯が説明されている.訳語に関してはしごく妥当な提案であり,私は著者に全面的に賛同する.

欲を言えば,分類学(taxonomy)の「分類」が必要とされた時代背景をもっと突っ込んでほしかった.たとえば,E. Mayr が提唱した alpha-, beta-, gamma-taxonomy の区別が1940年代の Modern Synthesis の中で意図された役回りとか,Turrill が「到達不可能な理想」とみなした omega-taxonomy がその後のディーム論や【種】論議の中でどのように変形解釈されていったかなど,表面的な「学問の分類」の背後には,それらの学問が置かれた固有の「文脈」があるはずだ.ある時点での「学問の分類」は,そういう文脈の流れの「断面」にほかならないと私は考える.

1.5節は,本書の中でもっとも大胆な主張がなされている部分である.とりわけ,著者自身の「学問分類」が綿密に与えられている(この1節だけで第4章全体よりも長い!).この節は,広義体系学を構成する5分科(分類学・系統学・狭義体系学・分布学・歴史生物地理学)の定義とそれら学問間の関連付けの説明に当てられている.著者の主張はここでもっとも先鋭に現われており,それだけに問題点もはっきりと浮かび上がる.

客観的な「分類」はもともとありえない.【誰】のために,そして【何】のために「分類」がなされているのかは,えてして明示的でないことが多い.「学問・科学・理論の分類」にもそれは一般的にあてはまるだろう.しかし,1.5節はちがう.著者が1.5節で提唱する「広義体系学」とそれを構成する学問群の「分類」の背後には,体系学に関する著者の意図がはっきり汲み取れる.言葉にしにくい部分まであえてさらけ出すのは,書く側にとって相当の決意が必要だっただろうと推察される.

にもかかわらず,この節には「語られないもの」が多く残されていると私は感じる.著者は分類学・系統学・狭義体系学の三者はそれぞれ別個の独立した学問であるとみなす(pp.36-40).分類学と系統学は別物――OK,確かに著者の言う通りだ.じゃ,「狭義体系学」って何:

狭義体系学(systematics sensu stricto):再構成された歴史(系統)と基本的進化的実体(単系統種,側系統種,祖先種)に基づいて,対象生物の秩序ある体系,つまり一般参考体系(general reference system)を確立する分科.(p.37)

ん?「一般参考体系」って...:

系統学の方法で厳密に再構成された系統樹と基本的進化的実体に基づいて,系統樹上の生物を階層的に配列した体系が,一般参考体系である.(p.37)

私の質問:

・なぜ【種】が「基本的進化的実体」なのですか?
 本書全体にわたっていえることですが,「種」とは何かが明示的な論議の対象から外されています.しかし,もし狭義体系学なるものを別個の学問として造りあげるのであれば,「種」に関する正面からの取り組みは不可欠だと私は思う.側系統種や祖先種についても同様.理由もなくそれらが「基本的進化的実体」と位置づけるのは,私には理解できません.

・なぜ「階層的配列」にこだわるのですか?
 階層性は無条件の前提ではなく,もっとも基本的な体系学のモデルとして経験的テストにかけられるべきだと私は考えます.仮定されるだけでは不十分だということ.系統発生が必ずしも樹形ではなく,網状になり得るというケースが実際にある以上,階層性には論拠が必要だ.

私の考えでは,「狭義体系学」と著者が呼ぶ分野は,たかだか推定された系統樹の「射影分類」としてのアウトプットという従属的な位置づけしか与えることはできない.それ以上のものではないと私は考える.【種】とか【階層】による色づけはまったく不要である.

「狭義分類学」は「分類学」とは異なる学問だと著者は言う.では,「分類学」はどのような独自性をもっているのか?:

分類学の第1の仕事として,生物種の記載(Mayr, 1968a; Winston, 1999も参考)がある.(p.39)

もし生物【種】と言うのであれば,それが「いかなるものか」を定義しないとね.「生物の記載」じゃダメなのですか?

また,分類学の別の仕事として,単なる生物種の発見・記載以外に,緻密な形態の記載...をあげることができるであろう.... つまり,記載的研究が生物世界の1つの側面,すなわち,形態的不連続性(morphological discontinuity)を明らかにするのである.... ‘関係’を探索する系統学,および系統樹に基づく一般参考体系の構築を目指す狭義体系学は,このタイプの貢献をすることができない(pp.39-40).

形態的不連続性というのは,私の理解では phenetic な概念である.直感的にはわかっても,系統学とは別の次元でそれを把握するのはできない相談ではないだろうか.系統樹の上であれば,あるクレードでの固有派生形質の蓄積量(たとえば)など系統学的な尺度を考案することは不可能ではないが.

もうひとつ,なぜ【形態】だけをわざわざ別格扱いするのだろうか.生物がもっている形質には分子からはじまって形態にいたるまでさまざまな属性があるのに,いきなり「形態的不連続性」だけにスポットライトを当てる意図が私には見えない.

著者は「一方で系統学の独立性を認めるものの,他方で分類思考が重要な役割を果たす従来の分類学(taxonomy)を,まったく別の意味(後述)で体系学において重要な学問である,と私は認識する」(p.36)と言う.しかし,その「後述」の理由が上に挙げた二つであるとしたら,私は著者の理由づけにはまったく同意できない(論拠になっていないから).むしろ,個人的には,分類学は生物の世界を見渡すわれわれ人間の側にとって認知的に「役に立つ」からということを第1の理由に挙げてほしかったな.たとえ,系統樹思考(tree-thinking)が進化学の中でどれほど浸透しても,分類思考(group-thinking)がなおその生命を保ち続けるとしたら,そのよりどころは「生きものとしてのヒト」にあるというのが私の持論.著者がひょっとして【種】や【不連続性】を認知心理学の問題として考えるとしたら,私のスタンスと完全一致すると思う.

※ ちょっと一休み...と.(to be continued)

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<Review> 直海俊一郎 (2002)『生物体系学』東大出版会 (4)
EVOLVE reader 諸氏:

三中信宏(農環研)です.

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「饒舌な沈黙」が示すもの(3)――「科学の分類」は誰のため?
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※ まだまだ続く「1.5節」!

分類学・系統学・狭義体系学の学問構造を規定しようとする著者は,「クラス化」としての分類(classification)と「システム化」としての体系化(systematization)とを対比させる(pp.40-45).その上で,著者は「システム」という概念を次のように解釈する:

進化する実体としての「個物」は全体/部分という関係をもつ「体系」の一種であるので,「体系」化(systematization)を「個物」化(individualization)と置き換えることは可能であろう(pp.42-43).

この解釈はおもしろい.G.C.D. Griffiths から K. de Queiroz に連なる分類学と体系学の「分離」の歴史の背景には,体系(システム)とは「歴史(系統発生)」であるという基本認識があると私はみなしている.しかし,著者の解釈では,体系構築とは「個物」の発見だと考えているようだ.クラス/個物説へのバイアスが強くかかっていると私は感じるものの(その体系の背景には系統発生があることをもっと強調してもよかったのではないか),それは体系学における「体系」のもうひとつの解釈として可能だと思う.クレード(単系統群)は確かに個物だからね.

しかし,著者は個物としてのクレードだけでは不十分と考える:

系統学的研究において個物(単系統群)と認識されない実体が,少なくとも2つある.その第1は側系統種であり,第2は対象生物群の真の祖先種(あるいは,完原始的群holarchaic group: Naomi, 1985a, p.15)である.これらの個物として認められない生物群は,de Queirozらの提唱する体系学における言葉の配列系のなかに含められず,宙に浮く.これは問題である.(p.44)

いったい何が「問題」なのか私には理解できない.「側系統種」とか「祖先種」なるものの実在性を著者は暗黙の前提(論拠が示されていない以上「暗黙の」と言うしかない)としているようだ.しかし,その前提に同意しない他者にとって,著者の主張は単なる「信念の表明」にすぎない.

著者は「個物」と「クラス」を包含する「メタカテゴリー」(pp.iii, 44)を想定し,個物としての単系統群も非個物としての側系統/祖先種もこの中に含めようとする.この敷延化は単に概念としての不明瞭さを増長するだけだろう.非個物としての【種】や【側系統群】の実在性をなぜ仮定しなければならないのか,どういう論拠でそれを「認める」のか――1.5節を通じて「認められる/認識される」という表現が頻発するが,ほとんどの場合その「主語」が明示されていない――の議論なくして,単にメタカテゴリーという風呂敷を広げるだけでは,ドラえもんのポケットと同じじゃない? 「これが上の問題に対する私の解答である」(p.45)――OK,しかしその「解答」には説得力がまったくない.

「メタカテゴリー」としてクラス化を実現し,一般参考体系を構築するためには,系統学と狭義体系学との関わりを厳密に定式化する必要があると著者は考えている.続く部分では,この関わりを系統樹と分類体系との間で定義される「クラス化」写像とその逆写像という観点から議論が進む(pp.45-55).その帰結が「新しいタイプの進化体系学」(p.55)である.

まずはじめに,著者は,系統学から狭義体系学への変換写像をつくろうとする.

系統学において個物と認識された生物群(単系統群)の名前には,分岐学的理論が負荷されている.そこで,その生物群のクラス化にあたっては,理論的に負荷されたものを生物群の名前から取り除かなくてはならない.... 「固有新形質」を内包(intension)としての「定義形質」へ換えると,その名前から理論的に負荷されたものを除去できる.(p.45)

私は一瞬 pattern cladist が自動筆記しているのかと思ってしまった.1980年代始めに定義形質(defining characters)をめぐる論議が体系学の中で交わされたことがあったが,歴史群としてのクレードの共有派生形質は,「変換」するまでもなく,そのまま定義形質と解釈すればすむ話だろうと私は考える.

むしろ,その変換(非時間化変換)によって,系統学的な理論的負荷が除去されるという著者の見解には強く反対したい.系統樹は祖先子孫関係という半順序関係によって構造化されており,祖先子孫関係のもとにはクレード間の集合包含関係がある(分岐図はその図式表現).非時間化が狭義体系学の特徴であるという主張は,系統学をいわれなく矮小化していると私は思う.非時間的な関係と時間的な関係の対応づけは系統学の中で十分に実行可能であり,狭義体系学を「独立した学問」としてつくる必要はさらさらない.

論点は単純だ――系統樹に全面依存する狭義体系学が,系統学的な「負荷」を免れているという主張は,矛盾以外の何ものでもない.

非個物に対しても同様の「変換」ができると著者は言う:

系統学において個物として認識されなかった生物群(側系統種,祖先種)の名前には,分岐学的理論は負荷されていない,と考えてよいであろう.ゆえに,そのような生物群のクラス化に際しては,(a)[個物]の場合のような用語の置き換えをとおして,生物群の概念を変換する必要はないであろう.(p.45)

その上で,著者は側系統種や祖先種を形質状態の組合せを「定義形質」とするクラスと「認める」(pp.45-46).

このきわめてシンプルな形態学的種概念が抱える問題点を問わないとしても,非個物の実在性を示す方法が与えられていない以上,変換の方法は一貫しないのではないか.

狭義形態学から系統学への「逆変換」では,さらに事態は悪化する(pp.51-53).そもそもどのような目的でこの「逆変換」は必要なのかを著者は説明していない.私が理解するかぎり,形式的に構築しているとしか思えない:

内包としての「定義形質」を漂徴としての「固有新形質」へと逆変換すると,その名前に系統学的理論(たとえば,分岐学的理論)の負荷が加わる.(p.51)

しかし,上述したように,単に名称の読み替えで「系統学的フレーバー」が着香されたり脱臭されたりする状況が私にはまったく想像できない.しかも,出自が単系統群のクラスはそのまま単系統群に逆変換されるが,出自が側系統種だったり祖先種だったりするクラスはそうではないと著者は言う(p.52).ということは,「定義域」としての狭義体系学を逆変換するためには「値域」である系統学についての知見がなければならないことになる.いったい何のための「逆変換」なのか,私にはその意義がわからない.

著者は「私の狭義体系学は非時間的ではあるが,系統学に依存した学問といえるものなのである」(p.54)と書く.私の理解では系統学だけでも十分に非時間的な関係は解析できるのだから,このだけ言えば狭義体系学の存在意義はないと考える.著者が,独立した分科としての狭義体系学を立てる必要があると考えた動機は,おそらく:

側系統種や祖先種のように進化単位として確かに‘実在する’実体(非個物)を分類群として認めるために,狭義体系学では側系統学的分類群(paraphyletic taxa)が正規群として肯定的に受け入れられる.(p.54)

の箇所にあるのだろう.系統学的には非個物であるとしても,メタカテゴリーとしてクラス化してしまえば,個物も非個物も【同格】に扱えるだろうという著者の目論見が透けて見える.

しかし,その目論見が成功するためには,何よりもまず前提である「進化単位として確かに‘実在する’実体」であるかどうかを論証する必要があるだろう.しかし,1.5節を読むかぎり,著者はその説明責任を果たしていないと私は思う.

「新たな生物体系学の提唱」というくだり(pp.53-55)は,私の推測が的外れではないことを明らかにしてくれる:

私の狭義体系学が系統学と‘基本的進化的実体’に基づいて一般参考体系を構築する,ということを目的にしている点である.(p.54)

要するに,系統樹だけではなく,側系統種や祖先種という(いまだ説明されていない)実体をこみにしたクラス化が,著者の言う「新しい生物体系学」である:

狭義体系学の一般参考体系において,単系統的分類群ばかりでなく側系統的分類群も正規群として認められている.したがって,この一般参考体系は[分岐学に基づく]系統的体系というよりは[進化分類学に基づく]進化的体系であるということである.(p.55:[ ]は三中による補足)

もちろん,著者のスタンスは,分岐学ではなく,むしろ進化分類学派に近いことは明白である:

私が本書のなかで提唱した体系学は,Simpson-Mayr流の進化体系学(evolutionary systematics)とは異なっているが,彼らの進化体系学に近い,新しいタイプの進化体系学といえるのではないだろうか.(p.55)

著者の提唱する「新しい進化体系学」がたしかにオリジナルであることを私は認めよう.しかし,少なくとも1.5節を読み通した私は,次の疑問しか残らなかった:

・何のために著者は「体系学の分類」をしたのか?
・誰のために著者は「体系学の分類」をしたのか?

第1の疑問については,ほぼ答えは見えた――著者は側系統群や祖先群など非単系統的な分類群や種を擁護するために,狭義体系学をはじめとする「学問の分類」をしたのだ,と.第2の疑問の答えはまだ霧の中である.もしも,進化体系学者と呼ばれている研究者たちが,著者の言う「新しい進化体系学」に対して賛同を示したならば,確かにそれは著者を含む進化体系学者にとって役に立つ「学問の分類」といえるだろう.

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<Review> 直海俊一郎 (2002)『生物体系学』東大出版会 (5)
EVOLVE reader 諸氏:

三中信宏(農環研)です.

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「饒舌な沈黙」が示すもの(4)――過重装備した新しい進化体系学
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※ やっと終わりだ,1.5節!

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これまで指摘したように,著者の理論化の道筋には「語られざる主役たち」が大勢潜んでいる(「多元論」という【黒衣】もいたなぁ).著者にとっては「彼ら」は顔なじみで,とくに紹介すべき者と見なしてはいないのだろう.しかし,種にしろ側系統性にしろ,あるべき論議がぽっかりと欠けている気がする.新しい進化体系学のあるべき姿を著者はきわめて饒舌に書き綴っているにもかかわらず,核心となる論点ではなぜか沈黙する.その落差が私にはとても奇妙に思える.「新しい進化体系学」は硬いヨロイを身にまとっているのだが,その hardening はいささか心許ない.
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「新しい進化体系学」のヴィジョンを与えた著者は,次に生物地理学の構造を論議する(pp.55-67).生物体系学と生物地理学とのパラレルな関係に着目する著者は(p.65),「分類学→系統学→狭義体系学」に対応する流れ(「学問流」:p.7)として「分布学→系統学→歴史生物地理学」という関係をつくろうとする(p.68, 図1-10).分類学が生物種と形態的不連続性の非時間的な記載であるのに対応して,分布学は地理的分布の非時間的な研究(p.274)と定義される.生物体系学と生物地理学における非時間的な研究(分類学と分布学)のあり方については,本書の第3章と第4章においてそれぞれ具体例を挙げながら論じられている.

「学問の分類」に対する著者のこだわりは,本書のいたるところに見出せるが,1.5節ではとりわけ息苦しく感じるほどだ.しかし,あまりに窮屈な「学問の分類」はほころびを避けられない.著者は言う:

系統学は,その分類学が提出した分類体系のなかに組み込まれた情報を,いったん分解し,形質進化の研究をとおして再解釈し,形質分布表を作り,それに基づいて系統樹を作成する.(p.67)

分類学を学問として活かそうとする苦肉の策であることはわかるのだが,著者の主張には無理がある.形質情報は個々の生物がもっているのであり,種や分類群がもっているわけではない.したがって,分類学が系統学の出発点であるとみなすのは,私の見方からいえば,過度に分類学サイドにバイアスのかかった主張である.

そもそも:
分類学→系統学→狭義体系学
分布学→系統学→歴史生物地理学
という学問流の並行関係を広義体系学の中で成り立つのか? 私の理解する歴史生物地理学は,分布域を共有する複数の生物群の系統関係の相互比較を通じて,生物相全体の系統発生を論じる学問分野である.単一の生物群に限定されないからこそ,歴史生物地理学は個々の体系学的研究を統合するメタ・アナリシス的な性格をもつのだと私は考える.だから:

これら2つの学問流は合さって,最終的に対象生物群の一般参考体系,系統樹,空間分布,および,その分布の歴史についての情報をもたらす.これらがまさに広義体系学の研究成果なのであるが,これらから得られる情報は基本的に整合的である.なぜなら,それらはすべて,系統学が提出した系統樹に基づいているからである.(p.69)

という総括は,私には違和感がある.個々の生物群の体系学的研究と,その集積を踏まえた歴史生物地理学的な研究との間には質的なちがいがあると私は思う.しかし,著者の説明(p.76)を読むかぎり,その意識は希薄に見える.

1.5節の最後は,生物体系学と生物地理学を含めた広義体系学のお仕事の流れが示される.著者の枠組みに従えば(p.72, 図1-11),分類体系がまずつくられ,その後に系統樹が構築され,それをクラス化変換することで一般参考体系が導かれる.分類体系と一致しようがするまいが,系統樹が得られるかぎりそれに準拠した一般参考体系が作られる.しかし,「系統解析がうまくいかなかった場合」は,一般参考体系はつくられず,最初の分類体系が「当分の間そのまま利用されることになる」という(p.72).

だが,実際問題として,推定値としての系統樹はクレードごとに信頼性にばらつきがある.必ずしもオール・オア・ナッシングで結論が決まるわけではない.もし狭義系統学が系統樹に基づくクラス化であるとしたら,クレードの信頼性もまた一般参考体系に反映されるべきだろう(側系統群のような非クレードはいったいどのようにして信頼性評価するのだろう?).いずれにせよ,図1-11は改訂される必要があると私は考える.

著者は,体系学的情報の「管理」についても言及する(pp.73-76).この点についての著者の見解は以下の通りである:

系統樹上での体系学的情報の一元管理は,非常に面倒であるばかりでなく,情報伝達の観点から見ても生産的でないと思える.そこで,系統学における個物・非個物をクラス化し,狭義体系学において分類群として管理するわけである.(p.73)

著者は単なる推測に基づいて一元管理には欠点があると述べている.しかし,1970年代末期の体系学論争の中では,分類体系の情報量の相互比較がすでに議論されており,進化的体系に比べて系統的体系の方が,共有派生形質の分布情報だけでなく,類似度の情報もより正確に保存されているという知見がすでに出されている(私の『生物系統学』3.5節を参照のこと).したがって,系統樹による体系学的情報の一元管理は「面倒」かつ「生産的ではない」という著者の主張には根拠がない.

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1.5節を通じていえる欠点は,著者が重要な論点を避けていることである.種・側系統をはじめとして,著者の提唱する学問の世界を論じる上で,これらの諸点は本来避けては通れないと私は思う.著者による「学問の分類」が,そういう暗黙の前提の上につくられたものであることは間違いないだろう.私はそれらの論点は十分に議論すべきだったと思う.多くの読者にとっては,1.5節の読破は容易ではないだろう.解読のためのキーワードが与えられていないからである.私は自分なりにこの部分を読みこんで,著者の意図するものを明らかにしようとした.しかし,そういう行間読みをしないですむように書いてほしかったと思う.

著者は「学問の分類」に重きを置いている.私は,むしろ「学問の系譜」に強い関心がある.私の意見では,系統学を広義体系学の中に閉じ込めておくのは(p.68, 図1-10),拘束衣を着せるようなものだ.著者がそういう図式を描いたのは「系統学は歴史的に見ると,分類学よりも遅れて進化論の発表のあとに起こった学問で,もともと分類学のなかの分科と見なされていた,という歴史もあった」(p.33)という認識があるからだろう.しかし,事実は決してそうではないということを私は『生物系統学』の第3章で跡づけた.いまはたまたま別の学問として扱われていても,分野横断的に共通の問題を論じたり,既存の学問の壁を越えたりというケースが系統学の世界にはよくある.私がある時点での断面としての「学問の分類」に対して関心が薄い理由はそこにある.系統学は,著者が考えているよりも,もっと深いルーツをもち,もっと広い裾野を有していると私は思う.

ようやく,本書の最高峰である「1.5節」の登攀を終えることとなった.著者自身が言うように,この部分の読解が本書全体の理解のポイントになる.本節に対する私の評価は低いが,別の読み方をすればその評価は変わるかもしれない(それは別の読者にお任せしたいが).他の読者が第1章(とくに1.5節)をどのように受容するかは,「体系学の社会学」の問題としてたいへん興味深いテーマだと私は思う.

※ 第1章の書評を書いたところで,茶でもずず〜と飲ましてもらいますぅ.

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<Review> 直海俊一郎 (2002)『生物体系学』東大出版会 (6)
EVOLVE reader 諸氏:

三中信宏(農環研)です.

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「饒舌な沈黙」が示すもの(5)――
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