『生物科学』55巻1号原稿(19/August/2003版) → 出版 55(1), pp.10-14 (1/October/2003)


科学論は科学からみれば〈たわごと〉なのかもしれない

三中 信宏
(農業環境技術研究所)

※Copyright 2003 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved


近年,科学と科学者を見る「まなざし」に変化があらわれてきた.従来の科学史・科学哲学とは別に,1980年代ごろから「科学論」,「科学と社会」,「科学技術社会論(STS: Science, Technology, Society)」と呼ばれる分野が新たに登場し,科学・技術・社会の相互の関わりあいについて分析している.現在の科学論は,科学倫理やリスク評価など科学や技術が社会と接する場面に活動領域を求めているように見える.場合によっては「市民」の側に立つアクティヴィストとしての役割を演じることにもなるだろう.あるいは,国・自治体やNPOを通して科学技術の政策決定に関わる場面に関与することもあるかもしれない.

この科学論という新たな試みは,科学とその影響について何を明らかにしてきたのだろうか.また,科学論は,科学と人類との接点で生じている困難な問題群について,何らかの解決への貢献をし得るのだろうか.そもそも科学論は,何を目指しているのだろうか.ポストモダン科学論と呼ばれるある「ものの見方」にいたっては,科学の客観性や真理性を否定し,科学も他の神話の体系と本質的に変わらない自然の一つの見方にすぎないという相対主義的主張を展開してきた.それは,科学者との間に,「サイエンス・ウォーズ」と呼ばれる論争を巻き起こすこととなった.科学をめぐるさまざまな言説を私たちはどのように評価していけばいいのだろうか.

本稿では,科学論もまた科学的研究対象のひとつであるという観点から,いくつかの問題点と提案をしたい.以下の内容は,昨年1月の大学共同セミナー「科学論は科学の敵なのか?」における講演(三中 2002a)を中心にして,その前後に行なった講演(三中 2001b, 2002b,c)を踏まえてまとめたものである.


1.科学論は経験的にテストされるべきである

「科学主義」という言葉がある.科学の至上性とか傲慢さを含意するこの言葉は,科学の社会的影響を論議したり,人文・社会科学との関わりを考察するときにしばしば登場するようである.しかし,科学とその成果が無謬であるとみなす「科学主義者」とは,攻撃されたり燃やされたりするためだけに仕立てられた藁人形だろう.実際,そのような考えを抱く現役の科学者はおそらくほとんどいないと私は推測する.なぜなら,経験科学に限定するならば,科学的言説は必ず何らかのデータ(観察や実験)によってテストされるべきであり.そのようなテストを繰り返しくぐり抜けてきた仮説なり理論に対してのみ,われわれ科学者は信頼を置くからである.逆に言えば,そのようなテストにさらされてこなかったすべての言説は科学者にとって〈たわごと〉であり,いくら声高に主張されようとも,何の価値もない.科学主義なるものは現代科学の中でもともと占めるべき位置をもってはいない.

伝統的な科学哲学者のカール・ヘンペルやカール・ポパーは,科学の中での仮説は経験的にテストされるべきだと言う一方で,科学に関わる言説(規範的性格をもつとされた)については科学史的なデータによるテストに対して否定的な姿勢を取った.逆に,トーマス・クーンは科学内の仮説選択は必ずしも合理的ではない(パラダイム論)が,科学のプロセスに関する主張は科学史的データによってテストされるべきだと主張した(Hull 2001:185).最近の強い意味での社会構築主義ならば,科学の中での言説が合理的に選択されることを否定するだけでなく,科学論的言説もまたテストできない(テストしない)と言うだろう(もちろん,相対主義を標榜する社会構築主義は当然「自分自身」にも適用されるはずなので).なぜなら,もしも社会構築主義がテスト可能であるとしたら,科学が社会的構築物であることを支持するデータが必要になる.しかし,それはとりもまおさず社会的構築物ではない「科学」が現実にあり得るということだ.

科学の中での言説と科学に関する言説を同列に扱うべきではないという意見もあるだろう.しかし,私はそうは思わない.科学において生物進化や化学反応に関する仮説が観察や実験を通してテストされるのとまったく同様に,科学に関する言説(以下では「科学論」と呼ぶ)もまた科学に関する観察なり実験によって経験的にテストされるべきであると私は考える.科学は単なる知識の集合体ではなく,万物を理解するための思考のツールである.そのツールはもちろん無謬ではないのだが,対象に切り込んでいくための有効な手段であることは確かだろう.

ここでいう「万物」とは,自然界に見られる現象だけを指しているのではない.人間の社会や文化に関わることももちろん含まれるし,哲学・思想に関わる言説もまた射程に入っている.哲学(ここでは科学に関わる哲学や論議を念頭に置いている)がデータによる経験的テストをくぐり抜けるべきであるという私の考えには違和感を覚える読者が少なくないかもしれない.しかし,思考ツールとしての科学が系譜をもつ進化体であることを考えたとき,科学に関する言説の経験的テストは現実味を帯びてくる.


2.進化する思考ツールとしての科学――その系統学的なテスト

「科学とは何か?」という問いかけは最初から拒否しよう.なぜなら,その設問には不適切だから.分類学における「種(species)とは何か?」という設問が不適切であるのとまったく同じ意味で「科学とは何か?」という設問は,その本質主義的な内容ゆえに不適切である.科学はもともと定義できないということだ.むしろ,科学はある系譜をもつ進化体(evolver)であり,系統樹として図示される歴史をもつと考えるべきだろう.概念的な共有派生形質(conceptual synapomorphy)をもつ分岐群(クレード)の存在を概念系統樹の上で示すことにより,ある科学的思考系が進化してきた経路を復元することができる(Hull 1988参照).Gould (2002)は,Hullに対抗する論陣を張り,科学理論(ダーウィニズム)は「形態的」に定義可能な本質をもつとみなす.しかし,概念系譜のある部分を切り取って,それを本質的形質によって定義するということは,われわれの分類認知性向にはフィットするが,科学理論の系統学的理解には何も寄与しない.

科学が進化する思考ツールであるということは,科学に関する経験的テストの手がかりを与える.周囲の環境(社会的・文化的・政治的)の中で科学がどのように進化してきたかという仮説は,科学の系譜が残したデータ(科学者の行動記録,学説の特徴など)によって,あるいはもっと積極的に科学者コミュニティーの中でリアルタイム実験をすることによりテストされるだろう.実際,Hull(1988)は生物体系学のコミュニティーに入り込むことで,特定の個別科学が進行するプロセスを経験的に示そうとした.

科学はもともと定義できない進化体であるため,グローバルに「科学というもの」を論じてもしかたがない.むしろ,ローカルな個々の科学に特化した科学論を展開する必要があるだろう.個別科学の中ではじめて科学(者)に関する経験的データは得られるのであり,それが個別科学に関する科学論のテストを可能にするだろう.もちろん,科学論的言明のテストが容易でないことは明らかだが,だからと言ってテストを逃れることはできない.

哲学は,伝統的にアナロジーとか思考実験を通してその主張の妥当性を検討するというスタイルが根強かった.内的な整合性や現実性をチェックするためには,それらの方策は今でも有効だろう.しかし,科学を論じる科学哲学や科学論にはもっとダイレクトな経験的テストを実践する道がすでに開かれていると私は考える.すなわち,科学に関するある現象(理論転換でも社会事象でも)を説明するための対立仮説はいくつもあり得るわけだが,手元のデータに基づいてそれらを相対的に比較検討して最良の説明を選択することが可能だろう.このテストの方法は進化学や系統学では日常的に用いられているものであり,科学論的言説の主張にも適用できるはずである.

科学という営為の記述モデル(「科学とは〜のように進んでいる」)としての科学論は,このように進化学的な意味でのテストの対象となる.では,規範モデル(「科学とは〜のように進むべきである」)としての科学論についてはどうか.こちらの方はもっと単純にテストできる――科学者がそれを採用するかどうかですべては決まるからだ(Hull 2001: 194).Scott-Ram (1990)は,体系学史を批判的に振り返って,科学者は科学哲学の流れをもっと勉強すべきであると述べた.しかし,彼は勘違いをしている.大半の科学者にとっては記述モデルとしての科学哲学はどうでもいいわけで,むしろ「武器として役に立つ」かどうかが規範モデルとしての哲学を選ぶ唯一の基準なのだ.

たとえば,過去半世紀の体系学史においてカール・ポパーの科学方法論は大きな影響力を持ち続けた(Hull 1988; 三中 1997; 三中・鈴木 2002).過去の進化現象をどのようにテストするのかという歴史科学の問題に直面した体系学者たちのある学派は,反証可能性による仮説選択を論じたポパーを支持した.ポパーの科学哲学は確かに「武器」として役に立つことが示され,その規範が体系学コミュニティーに浸透した.一方,ファイヤーアーベントのアナーキスト的主張は当の体系学者たちにとっては何の価値もなかった(限られた数量表形学派が支持しただけである).それは科学者の行動を準拠させる行動規範として,そしてそれを手にして戦うべきツールとして役に立たなかったからにほかならない.


3.科学,科学論,科学論論,...

データに照らして言説をテストすることは,多くの科学者にとってごく日常的な行為である.数ある対立仮説はその時点での知見に照らして,相対的により強く支持されたりされなかったりする.今日もっとも強く支持された仮説が明日も生き延びる保証はない.すべてはデータに照らした相対的評価であり,絶対的な真偽は科学の世界とは無縁である.

ソーカルとブリクモン(2000)は,データに依拠する言説の比較検討は「知的誠実さ」のあらわれのひとつであるとみなしている.確かに,主張の妥当さは声の大きさや見た目の派手さによって決まるのではない.科学者にとっては,ある主張を支持するデータがどこにあるのか,対立仮説と比較してその仮説がどれほどすぐれているのか,そしてどのようなデータがあればその主張は否定されるのかという点こそ,〈たわごと〉を脱却して,〈知的誠実〉である証しを立てられるかどうかの要点である.

科学と科学論における言説の経験的テストを次のような模式化を考えてみよう(図1).S(=Study)とはあることについて「学ぶ」というもっとも基本的な行為である.科学者の行為はSS(=Study Scientifically)と表わせる.これは上述の意味で「科学的に学ぶ」ということである.通常の意味での科学論はSS’(=Study Science)ということになるが,これは必ずしも「科学的に」を意味してはいない.私は,科学的な科学論SSS(=Study Science Scientifically)であってほしいと思う.Hull (2001: 222)はさらに一歩進めて,科学的な科学論論SSSS(=Study Science-Studies Scientifically)を提唱する.科学論そのものが科学的な研究対象であるというスタンスだ.

科学(SS)→科学論(SSS)→科学論論(SSSS)という階層は,概念束(conceptual lattice)として図示できる(図2).SSという科学思考のツールは,科学の中だけに限定されるのではない.科学論にも科学論論にも等しく拡大使用できるし,そうすべきであるというのが私の主張だ.

科学を取り巻く最近の社会状況を考えるとき,科学に関する言説が重要な役割を果たし得ることは明らかだろう.その重要性を鑑みたとき,科学論は経験的なテストの洗礼を受けることにより,自らの主張の妥当性を公に示していただきたいと思う.そうすることではじめて〈たわごと〉ではない科学論が出現できるだろう.〈知的誠実〉な科学論は社会的構築物ではない.


4.おわりに――「ハエの帝王たち」にも審判は下る

科学史・科学哲学にはもともと言説の経験的テストという「科学的」な制約があったはずである.科学者がデータに基づく仮説のテストを重要視するのと同様に,科学に関する言説もまた実際の科学から得られるデータによってテストされる必要がある.科学論者の主張はどのようにすればテストできるのだろうか.そもそも彼らの主張はテストすることが可能なのだろうか.ポストモダン思想の悪しき発現のひとつとして,「経験に照らし合わせての検証とは結びつかない論考」がまかり通っているとソーカルとブリクモン(2000: 2)は指摘している.また,ブーヴレス(2003: 176)はポストモダン思想が「他人に批判の権利を認めなくなってしまった」現状を厳しく批判する.相対主義や社会構築主義は別になくてもかまわない思潮だが,それが経験に基づく思考や批判というスタイルを浸蝕しているとするならば害毒であると言うしかない.

私自身は「理系/文系」という科学の分類は恣意的にすぎないと考えているのだが,経験的テストという言説の通過儀礼がいまだ常識になっていない学問分野が現実に存在することは事実だろう.科学論はもともと経験科学ではないだろうか.そして,経験的テストは科学論にとって不可欠の構成要素とはいえないだろうか.そういう学問としての経験的基盤を軽視して,いたずらに政策科学やアクティヴィズムに傾斜することに疑念を持たざるをえない.それとも,いまの科学論は,科学コミュニティーのもつ目線の高さをもはや共有してはいないのだろうか.

FarrisとPlatnick(1989)は,Hull(1988)を批判する書評の中で,長年にわたって体系学者を「ハエ」(すなわち科学論研究のための実験動物)と見なしてきたHullは「ハエの帝王」であると述べた.現実問題として,大半の科学者にとっては,科学論者が何を言おうが日常的な研究活動には何の関係もない.「帝王(たち)」が言おうが綿栓で封されたフラスコの中の「ハエ(たち)」の生活には何の関わりもない.多くのハエたちは帝王に物申す機会はほとんどないし,たとえあったからといってそうする意思もない.科学と科学論との関係が「一方向的」であることは残念ながら事実だろう.

しかし,科学者がショウジョウバエとちがっているのは,「ハエ」は「帝王」の言動をじっと見ていて,その意味するところを理解できるという点だ.両者のコミュニケーションが今はなかったとしても,相手のしていることが理解できないわけではない.科学論者は科学者の行為について何がしかの理解を得ようとしている.鏡像的に,科学者は科学論者の言動を観察し,現代の科学論がいかなる学的基盤をもっているのかを科学の観点から評価できる.フラスコの中と外とは実は相対的な隔壁にすぎない.科学論者の挙動は科学者側によってしっかり観察されているということだ.「ハエの帝王たち」もまた裁かれるのだ.

科学者は,まだテストされていない,あるいはテストできない言説や主張に対してはきわめて懐疑的で冷淡である.海のものとも山のものともつかない「論」はただそれだけのものにすぎない.いまだ厳しくテストされていない科学論的言説は,科学にとって同一の議論の基盤を共有する「味方」でないのはもちろんのこと,「敵」でさえないのかもしれない.


引用文献
  • ジャック・ブーヴレス(宮代康丈訳)2003. アナロジーの罠:フランス現代思想批判. 新書館,東京,218 pp.
  • Farris, J.S and N.I. Platnick 1989. Lord of flies: The systematist as study animal. Cladistics, 5: 295-310.
  • Gould, S.J. 2002. The Structure of Evolutionary Theory. Harvard University Press, Cambridge, xxiv+1433 pp.
  • Hull, D.L. 1988. Science as a Process: An Evolutionary Account of the Social and Conceptual Development of Science. The University of Chicago Press, Chicago, xiv+586 pp.
  • Hull, D.L. 2001. Science and Selection: Essays on Biological Evolution and the Philosophy of Science. Cambridge University Press, Cambridge, x+267 pp.
  • 三中信宏 1997. 生物系統学 東京大学出版会, 東京, xiv+458pp.
  • 三中信宏 2001a.[書評]金森修『サイエンス・ウォーズ』東京大学出版会. 科学 (岩波書店), 71(2):207-209
  • 三中信宏 2001b.「ハエ」と「帝王」−科学論的言説の経験的テスト. 日本ポパー哲学研究会第12回年次大会シンポジウム「科学と社会,あるいは科学の社会的機能」(中央大学市ヶ谷キャンパス)における口頭発表.
  • 三中信宏 2002a. 科学論は科学の敵なのか?−科学をめぐる言説のゆくえを見据える−(第187回大学共同セミナー). 大学セミナー・ハウス(八王子)における口頭発表とオーガナイザー.
  • 三中信宏 2002b. 武器としての科学哲学:生物体系学におけるカール・ポパー哲学の受容をめぐって. 京都大学理学部動物学教室セミナー.
  • 三中信宏 2002c. ノーモア科学“論”:Science Studiesもまた科学たるべし.千葉大学文学部(人文科学の現在7:科学哲学)での講義.
  • 三中信宏・鈴木邦雄 2002. 生物体系学におけるポパー哲学の比較受容. 所収:日本ポパー哲学研究会(編),『批判的合理主義・第2巻:応用的諸問題』, pp.71-124. 未來社,東京.
  • Scott-Ram, N.R. 1990. Transformed Cladistics, Taxonomy and Evolution. Cambridge University Press, Cambridge, xii+238pp.
  • アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン(田崎晴明・大野克嗣・堀茂樹訳)2000. 「知」の欺瞞:ポストモダン思想における科学の濫用.岩波書店,東京,xxviii+338+30pp.