グールドのデビューは2回あった


三中信宏
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掲載誌:東京大学生協書籍部書評誌『ほん』,2004年1月号(通巻第317号)
〈特集:若書き〉p. 7(2003年12月23日発行)


昨年5月惜しまれつつ亡くなった古生物学者スティーヴン・ジェイ・グールドは,数多くの話題作を世に出してきた.バージェス動物相の進化ストーリーを描いた『ワンダフル・ライフ』(1993年,早川書房)はベストセラーになったし,四半世紀にわたって書き続けられた連載科学エッセイ集は原書で10冊にもなる(早川書房からの翻訳では各巻が上下に分けられているので,すべて訳されると計20冊ということになる).

彼の専門である進化学に目を向けると,1970年代はじめに提唱した断続平衡理論は大進化を説明する仮説として大きな論議を呼び起こした.また彼の母国アメリカで繰り返し狼煙の上がる創造説由来のアンチ進化運動に対しては粘り強く反論し続けた.一方で,ハーバードでの同僚リチャード・ルウォンティンとともに,自らの左翼的政治信条に則って生物学的決定論や社会生物学と対決し,〈人民のための科学(SftP)〉運動を担う.そして,死の直前には1400ページを越す大著『進化理論の構造』(ハーバード大学出版部)を残し,今年になって生前大ファンだった野球のエッセイ本まで届いた――グールドの60年の生涯を振り返るとき,彼が実は何人分もの人生を生きていたのではないかという気さえする.

出版年から言えば,グールドのもっとも若い頃の著作は,最初の進化エッセイ集である『ダーウィン以来』(早川書房,1984年,ISBN: 415203243X(上)/4152032448(下)|ハヤカワ文庫版は1995年)と形態進化とその科学史を論じた『個体発生と系統発生』(工作舎,1987年,ISBN: 4875021402)である.原書出版はいずれも1977年だ.もう1冊挙げるならば,優生学史の名著『人間の測りまちがい』(河出書房新社,1989年,ISBN: 4309250483|1998年に増補改訂版が出ている)だろう(初版の原書は1981年出版).しかし,これら3冊が〈若書き〉なのかと問われるとはたと考え込んでしまう.

1941年生まれのグールドがニューヨークのアンティオク・カレッジの地球科学科を1963年に学部卒業したときの相対成長(アロメトリー)理論に関する研究は,権威ある『アメリカン・ナチュラリスト』誌に指導教官との連名論文として掲載されている(1965年,彼が24歳のときである).その後,コロンビア大学大学院の在学中に,個体発生と系統発生における相対生長の意義について大部のレビュー論文を発表し(1966年),それが彼の研究上のキャリアの出発点となっている.大学院修了後,ハーバード大学比較動物学博物館(MCZ)に入ったグールドは,1972年にナイルズ・エルドリッジとともに大進化の「断続平衡説」を提唱し,当時の古生物学のみならず進化生物学にも大きな波紋をひき起こした.その後の活躍ぶりは誰もが知っているとおりである.

グールドが最初の3著作を出版した1970〜80年代は,彼が専門分野で精力的に仕事をした30歳代に相当する.一般の研究者のライフスタイルからいえば,この年代に書かれた著作は〈若書き〉と呼んでも不自然ではない(大学院を出るのが30歳近いのだから).しかし,グールドにかぎって言えばこの通説はあてはまらない.最初の3冊を出した時点でのグールドはもはや〈デビューしたて〉ではなかった――むしろ〈完成された文筆家〉と呼ぶべきだろう.科学エッセイと比較形態学と社会派の著作をもって文壇デビューしたグールドは,それに先立つ15年も前に華々しい学会デビューを飾っていたからだ.生物学はもとより歴史学・文学・思想にわたる博学ぶり,貪るような知識欲,そしてめくるめく文章を紡ぎ出す技と力――最初の3冊にすでに発現しているこれらの特徴を目にするにつけ.この3冊が一般的には〈若書きのデビュー作〉とみなされても,個別的には〈練達の技の発露〉にほかならないというなんとも悩ましい(うらやましい?)思いにとらわれる.

のちにグールドの第3エッセイ集『ニワトリの歯』(早川書房,1988年)をいっしょに訳すことになる渡辺政隆さんとは農学部の同じ研究室で机を並べていた.あるとき,渡辺さんと「グールドってどうやってこんなに立て続けにエッセイが書けるのでしょうね」という話しをしたおり,「おそらくMCZの地下書庫でも漁り回っているんじゃないかなあ」などと勝手な推測をめぐらしたことをいま思い出す.すでに8巻16冊出ているグールドのエッセイ集は科学エッセイの書き手にとってはとてつもない「峰」であり,私などはその「結界」にはゆめゆめ近づくまいと決心したほどである.

渡辺さんが訳した『個体発生と系統発生』の冒頭には「私は本書を一個の生きものとみなしている」(p.9)と書かれている.そうなのだ,グールドにとって「本を書く」という行為は生きものを育てるのとまったく同じ行為なのだ.6年がかりで彼が育てた『個体発生と系統発生』は形態学と進化学との関わりをテーマとする古典となった.『ダーウィン以来』に始まる連作エッセイは彼が25年をかけて育て続けたもうひとつの大きな生きものである.そして,『人間の測りまちがい』もまた回顧的に言えば彼が学部生の頃から20年近い年月をかけて連綿と温めてきた主題が花開いたものといえる.グールドが書いた「本」を読むということは,読者それぞれが彼の手から〈生きもの〉を譲ってもらうということなのだ.


[2003年12月1日公開|2004年12月8日修正|2020年7月25日加筆]