エピローグ:分岐学の現代的チューンナップ、そしてクリオへの賛辞

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系統樹の時代には、きっと終焉はない。(Hennig 1969: 22)
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 これまでの章で、私は分岐学という系統推定法の「現代的チューンナップ」を試みました。このチューンナップは、次の3つのレベルで行われました。

1)認識論的チューンナップ:系統樹思考(tree-thinking)を分岐学の前面に押し出しました。私のいう系統樹思考では、クレード(clade)すなわち厳密な単系統群が進化史の主人公(中心主体:central subject)であるとみなします。この系統樹思考のもとでは、cladogram とはクレード進化の年代記、cladist とはクレード進化を論じる人、そして cladistics とはクレード進化を研究する学問にほかなりません。体系学の核心は歴史の推定であり、分類はその副産物にすぎません。分類が系統に先行するという考え、分類が生物多様性の理解に役立つという考えはともに誤りです。分類とは、生物多様性をヒトがどのように認知するかを、そしてその認知特性を明らかにする行為です。生物多様性がいかにして成立したか、それがどのような歴史過程により進化したかを解明する目的には、原理的に寄与できません。分類ではなく系統がそれに寄与するのです。

2)方法論的チューンナップ:最節約性(parsimony)を前提として分岐学の根本概念や手続きを再検討しました。分岐図はクレードの出現に関する系統仮説であるという発展分岐学の解釈を契機として、観察データに基づく分岐図の選択規準が見直されました。ホモプラシーの最少化という最節約規準は、Hennig の伝統的分岐学の正当性を保証すると同時に、形質状態の方向性推定が分岐分析に先だって行われる必要がないことを明らかにしました。さらに、複数の分岐図を同時に考察しなければならないさまざまなケースでは(第5章参照)、最節約規準により共通要因に関する仮説が導けます。また、樹形が与えられたときの形質進化の最節約的な復元方法も議論しました。

3)経験的チューンナップ:分子データに代表される新しいタイプの形質に基づいて、データの情報性を評価し、最節約分岐図を推定し、得られた分岐図の統計学的信頼性を評価するためのさまざまな方法を論じました。さらに、一般化最節約法を用いれば、進化過程に関する明示的な形質進化モデルのもとでのベイズ推定法として分岐分析を一般化できることを示しました。また、樹形図よりもさらに複雑な由来関係の構造であるネットワークの最節約復元への一般化の道も示唆しました。

 もちろん、これらのチューンナップはまだすべて完了したわけではありません。近いうちに完了できるかどうかも定かではありません。分岐学の理論体系が解決しなければならない新たな問題がきっと次々に現われるにちがいないからです。その意味で、分岐学の「変容」(transformation: Platnick 1979, 1985)に終わりはありません。しかし、ある理論体系が変容し続けられるということは、現実を前にしての柔軟性をそれが失ってはいない証しでしょう。私は分岐学が将来もなお前向きでしたたかな研究プログラムであり続けることを望んでいます。

 以下は、体系学の現代史を彩った「哲学論争」についての私見です。日本の生物学者は、概して自分の専門分野における哲学的・形而上学的・認識論的な論議を嫌うようです。のみならず、現役の研究者の間では、学史的な話をも敬遠する傾向があります。1970−80年代にかけての分岐学の発展時期(英語圏での)は、また体系学派の間で哲学論争がきわめてさかんだった時期でもありました(第3章参照)。日本の分類学者は、この哲学論争を不当に低く評価し、その意義を十分に理解していないのではないでしょうか。実際、その時期に日本の分類学界では一部を除いて「哲学的」な論議はほとんどなかったように私は思います。
 私が分岐学の勉強を手探りではじめた学部4年生の頃(1980年)は、Systematic Zoology 誌を中心に体系学方法論の哲学論争が高揚した時期と重なっていました。予備知識のない初心者にとって Systematic Zoology 誌の「敷居の高さ」は尋常ではなく、掲載論文の読解不能状態がかなり長く続いたという記憶があります。さんざん読みまくってようやく同誌の雰囲気に慣れたのは、大学院の博士課程に進んでからのことです。今にして思えば、当時の哲学論争の一つの共通点である「徹底的に疑い、徹底的に調べ、徹底的に論じる」という基本精神は当時の私にとってきわめて異文化的なものだったのです。
 哲学の根源が「疑うこと」にあるのだとしたら、体系学は哲学の素材に事欠きません。むしろ、体系・種・歴史・系統・因果・推論・検証などという体系学のキーワードすべてが古来からの伝統的哲学においてそして現代の科学哲学において論議の対象になってきたというべきでしょう。体系学や系統学はもともと哲学と表裏一体なのです。つまり一皮剥けばそこはもう哲学ということです。
 日本の生物学者は「哲学」と聞くと「思弁的で非生産的」だから「排除しよう」と考えがちです。もちろん、哲学はその根源が「思弁的で非生産的だ」であることは私も認めます。しかし、それが哲学の排除に直結してしまう精神的土壌こそ問題だろうと私は考えます。哲学的に徹底的に議論しあったからこそ、現代の体系学はもっともアクティブな学問領域の一つになれたのでしょう。

 私は、本書において、体系学のたどってきた歴史(そして現代史)を重視しました。この本の前半200ページあまりは、率直に言えば科学史に関する記述です。本書の原稿を読んだある研究者は、現題の読者にとって関係のない生物学史的な記述があまりにも多すぎるのではないかというコメントを返してきました。この点に関しては私は確信犯であることを自白します。系統樹思考は、生物の系譜だけではなく、無生物の進化にも同等にあてはまります。科学理論もまたそれ自身の系譜をもつ中心主体です。したがって、科学理論の進化や分岐を知るためには、その系統をたどらなければなりません。現代の体系学で戦わされている問題のルーツは、過去から継承された問題状況の反映です。論争の根は現代ではなく、過去にあることが往々にしてあります。したがって、現役の体系学研究者こそ生物学史を学ぶべきであると私は考えます。
 本書の中心テーマである分岐学的方法は数世紀にわたる系譜をもっています。その分岐学クレードの全貌を明らかにすることは、本書のような小さな本ではとても説明できません。私が論じたのはそのクレードの一部だけです。しかし、理論の系譜をたどることで、私たちは「さらに狭く、さらに深く」という現代科学に特有の排他的個別専門化症候群(Greene 1997: 619)から逃れることができるのではないでしょうか。デッドヒートした科学論争はあまりに人間的です。Hull(1988)が詳述したように、体系学論争の歴史は体系学者の人間関係の歴史でもありました。この歴史を「感情的な論争」だったから「得るものはない」の一言で片付けてしまうことは実にもったいない。感情的対立の背後にある感情的でない多くの論点に私たちは耳をすませるべきです。生物の系統から得られる知見が有用であるのとまったく同じく、科学理論の系統から得られる知見も有用です。
 現代の体系学者は、系統発生とその推定について理解しようとするならば、科学哲学、生物哲学そして歴史哲学の知識が要求されます。歴史を復元するという仕事はそれだけ複雑であり、困難であり、そして挑戦的です。もちろん、哲学のない「系統樹作成」なら誰でもできます。付録でくわしく情報提供するように、系統推定ソフトウェアやインターネット資源が近年急速に充実し整備されてきたことは、「やろうと思えばいつでも誰にでも手軽に系統樹が描ける」時代が到来したことを意味します。系統樹を描くことそれ自体は、天才の閃きでもライフワークでも何でもなく、ちょっとしたコンピューターとデータがあれば小学生にでもきっと描けるでしょう。
 馬渡(1995b: 241)は、「系統推定と系統樹構築の単純作業」から解放された分類学者は「ほかの誰にもできないこと、自然の中からタクサを見つけだす研究」に従事すべきであると言います。系統樹を描くのはお手軽だから系統推定や系統樹構築も「単純作業」であるという馬渡のこの主張は、二重の意味で思慮が足りません。
 第一に、系統推定が単純であるという馬渡の政治的見解は容易に否定できます。確かに、コンピューターをちょいといじって何も考えずに系統樹をパッと描かせるだけなら、彼の言うとおり誰でもできる「単純作業」です。しかし、そういう系統樹出力の単純作業など、歴史推定という大テーマとは何の関係もありません。重要なことは、いかにして系統樹を「描くか」ではなく、いかにして系統を「推定するか」だったはずです。系統推定には、形質データの準備とコード化・推定手法の妥当性・最適系統樹の探索戦略・結果の信頼性評価・進化プロセス仮定の組込みといったさまざまな問題が待ち受けています。そのどれ一つをとっても「単純作業」にはほど遠い難問であると私は認識しています。系統樹が描けたからといって系統を推定したことにはなりません。馬渡はどうやらこの点を理解していないようです。
 第二に、系統推定のあるステップが曲がりなりにも「単純作業」と馬渡によって誤解してもらえる段階に到達できた背景には、系統学者や体系学者の系統推定に関する長期にわたる研究成果(決して「単純作業」ではない!)の蓄積があったことが彼にはわかっていません。たとえ話をしましょう。10個の標本測定値があったとします。「これらの数を全部合計して10で割りなさい」という問題を小学生のある女の子にやらせたとします。彼女はきっと間違いなく計算してくれるでしょう。しかし、ふつうの小学校教育を受けている彼女は、母集団からの無作為標本抽出とか標本平均の確率分布とか推定量の不偏性という統計学の点推定理論についてはまだ何一つ知らないはずです。にもかかわらず、彼女は母平均の不偏推定値である「標本平均」を確かに計算できました。しかし、標本平均なんか小学生にでも計算できるのだから点推定理論は「単純作業」だなどと発言しようものなら、大多数の統計学者の失笑を買うでしょうね、きっと。同じことが系統推定にも当てはまります。
 PAUPという系統推定ソフトウェアがあります。その開発者である David Swofford がマニュアル(Swofford and Begle 1993)の表紙見返しに「PAUP 3.1 は多くの点でモノグラフ論文に匹敵する」と書いていることは意味深長です。最適系統樹を探索するという系統推定のステップを「単純作業」化してくれるすぐれたソフトウェアには、多くの独創的な知見が盛り込まれていることを私たちはぜひ理解しましょう。私たちが学ぶべきことはキーボードに向かって「単純作業」に熟達することではありません。その背後に広がる系統学と体系学の世界こそ真に学ぶべき対象です。

 ほんの数十年前までは(今も?)、系統は憶測の産物であると見下され、系統についてうんぬんする前に「正しい分類」をすべきであると論じられていました。1世紀前の Haeckel 流系統学の負の遺産がそういう見解を支えていたのだと私は考えます。しかし、本書を通じて私が主張したかったことの一つは、理論的な基礎付けおよびデータ蓄積の現状から見て、単なる憶測ではない系統推定が現在では十分に可能であるという点です。現代の進化生物学者の道具箱の中に分岐図が常備されつつあるのは、当然の成り行きです。
 分類体系は進化生物学者だけのものではないだろうって? そりゃそうだ。もともと分類と系統とは何の関わりもないんだし、進化生物学者(もっと広く比較生物学者)が欲しがっているのは分類ではなく系統なんだから(第1章参照)、分類が系統に義理立てする必要はどこにもないよね。お好きなように分類すればいいんじゃない。ただね、相手は進化する実体でしょ。進化しながら変化してきた実体の分類が進化を反映していないというのはやっぱり不自然ですね。不自然ではないというのなら、それなりの弁明をする必要があるでしょう。それとも、「万物は進化のもとに」っていう Dobzhansky (1973)の有名なタイトルとその意義をいまさらここで復唱しなければならないのかなぁ。

 生物の系統を知ることは、はるかな過去からとおい未来へいたる、生きもののたどってきた道のりを復元することです。その復元には推定としての論理があります。本書ではこの「論理」について話してきました。あれっ? どこからか独り言が..:

私は当惑してしまった。それまではいつも、論理こそ普遍的な武器だと信じてきたのに、いまになって、論理の有効性はそれを用いる方法にかかっていることに、気づいたからだ。(メルクの見習修道士アドソ:ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』河島英昭訳 1990,東京創元社,下巻,p.13)

アドソさん、そりゃそうですよ。論理は論理。いかにしてそれを適切に用いるかが重要なのです。あなたの師匠であるウィリアム修道士の旧友オッカムさんが悩んだのもその点ですね。歴史科学は、推定の科学であって、憶測の巣窟ではけっしてありません。論理的に攻めきれない部分があることは確かです。しかし、だからといって、非論理的なことをいくら言い立てたところでてんでお話になりません。きちんと推定された系統に基づく過去の復元は、進化生物学の不可欠の前提であり、出発点であると私は考えます。Hennigが言うとおり、「系統樹の時代」に終わりはないのです。

 ギリシャ神話にはクリオ(Clio)という神が登場します。歴史を司る神です。歴史の過程とその結果を不当に無視したりあるいはその意義を矮小化したりせずに、正面から取り組むことが私たちに求められています。クリオをふたたび称えつつ、本書を終えたいと思います。

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「とおく」

 ...
 このままずうっとあるいていくとどこにでるのだろう
 しらないうちにわたしはおばあちゃんになるのかしら
 きょうのこともわすれてしまって
 おちゃをのんでいるのかしら
 ここよりももっととおいところで
 そのときひとりでいいからすきなひとがいるといいな
 そのひとはもうしんでてもいいから
 どうしてもわすれられないおもいでがあるといいな
 どこからかうみのにおいがしてくる
 でもわたしはきっとうみよりももっととおくへいける

(武満徹 1992 「系図」Family tree,詩:谷川俊太郎)

[エピローグ 終了]