築地本マルシェ http://www.asahi.com/ad/honmaru/
大学出版部協会企画:鼎談〈学術書を読む — 「専門」を超えた知を育む〉
2018年2月18日(日)14:00〜15:00@ベルサール汐留
三中信宏配布資料

MINAKA Nobuhiro — leeswijzer: boeken annex van dagboek
http://d.hatena.ne.jp/leeswijzer/

誰がために本を書く?(2017年12月13日)

http://d.hatena.ne.jp/leeswijzer/20171213/1514537550

2017年12月22日(金)に開催された岡山大学農学部の第349回昆虫学土曜セミナーで,ワタクシは「分類学と系統学の世界観:多様性はどのように可視化されてきたか」なる講演をした.その質疑時間に,「ミナカさんが本を書かれるときは読者層に合わせてどのように書き分けられているんでしょうか?」というツボな質問があった.すかさず「ワタクシは自分のためにだけ本を書いているので読者のことを意識したことはまったくありません」という自説を展開した.「自分が読みたい内容の本を自分で書く」「自分があとでレファレンスとして利用できる本を自分で書く」—— 本の “かたち” がハードカバーであっても新書であっても,この方針はゆるがない.ワタクシの本を手にした読者のなかにときどき “被害者” がいることは承知しているが,あまり気にしていない.

図書館は出版社の敵?(2015年12月6日)

http://d.hatena.ne.jp/leeswijzer/20151206/1449836703

日本経済新聞「図書館は出版社の敵? 売り上げ悪影響を危惧」(2015年12月4日) http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG02H9M_U5A201C1CC0000/ には「新潮社など複数の出版社と大手書店、有名作家らは連名で、一部の新刊本は貸し出し開始を発売から1年間遅らせるよう、年内にも図書館側に要請」と書かれている.

洋書の場合,高価なハードカバー版は図書館用,大幅に安価なペーパーバック版は個人購入用と理解している.ところが,最近はハードカバー&ペーパーバックの二本立てではなく,ハードカバー&電子本になって,しかも電子本がけっして安いわけではない.実質的な値上げなのか.この傾向は学術書の場合で,一般書に当てはまるかどうかはわからないが.(公費購入した学術書の電子版がどのように “配架” されているのか,前から気になっているのだが,みなさんどうしているのだろう.未体験ゾーンなのでぜんぜん想像ができない.)

別件だが,「本を日本語で出版するよりも,外国語(たとえば英語)で出版した方が読者層がより広がる」という通説はほんとうなんだろうか? 確かに,言語ユーザーの数からいえば「潜在読者数」は多くても,実際に買って読んでくれる「実質読者数」ではどうなのかという問題.ワタクシが三年前に翻訳したある科学啓蒙書を例に取れば,翻訳本は幸い三刷まで重版されて,この手の本にしてはそこそこ売れている.そのことを原著者にメールしたら,とても驚いたようで,「アメリカではハードカバー&ペーパーバックを合わせてもそんなに売れていない」と.その返事に今度はワタクシの方がびっくりした.内容的には一般向けの科学書なので,英語圏の潜在読者層の厚さから言えば日本語の比ではないはず.しかし,実際に本を買ってくれる実質読者数とは必ずしも相関しないということか.サンプルサイズが小さすぎて結論は出せないが.刷り部数が意外に少ないかも.専門的な学術書の価格の高さを見るときっと数百部しか刷っていないだろうと推測していたが,一般向きの本でもハードカバー版はその傾向があるのかもしれない.

ペーパーバック版や電子版で部数を稼いでいるのでは.旧共産圏(ソビエト・東欧)の本はマジで「この機会を逃したら即アウト」というスリル感があった.いまだと,中南米の出版物がそれに相当し,出版されているはずなのに,まったくヒットしない本がいくつもある.

本の電子的解体と読み方の変容(2015年3月8日)

http://d.hatena.ne.jp/leeswijzer/20150308/1425772364

CNet:林智彦(2015年3月6日)「活字離れ」論に最終決着?--電子書籍を含めれば「不読率」は激減している」 http://japan.cnet.com/sp/t_hayashi/35061283/ という記事を見た.「本」は読まなくても「活字」は読んでいるという結論.確かに,「本」を「活字」に換算してしまえば結論は変わるだろう.しかし,それとは別に「本」というまとまった情報パックの “電子切り身” が売られている現状は読み方に影響を及ぼしているにちがいない.たとえば,「電子本」で出版される専門書には,一冊の本を「章」ごとに切り分けて “分売” するケースがある.論文集のような複数著者による本ならば,特定著者の「章」だけを “電子切り身” で買う意味はあるだろう.他方,単一著者の本であっても「章」ごとに売られていて,きっと特定の「章」だけ買う読者もいるだろう.こういう場合,ある著者の「本を読んだ」という表現は適切なのか.もちろん「紙の本」でも “つまみ読み” すれば同じだけど.

本書きのロールモデル(2014年10月9日)

http://d.hatena.ne.jp/leeswijzer/20141009/1413060174

ふらりと来室した研究者との立ち話.彼いわく,そろそろ単著で本を書きたいのだがいったいどう動いていいのかと.まずはどこかの出版社のいずれかの編集者にアピールして,自著の企画をもちこむのが先決だろうと答えたのだが,実はそれとは別の問題がありそうで.要するに,周りを見回しても「本を書いている人」がぜんぜんいないというシンプルな事実に戸惑う.前に読んだ:川上桃子「本か論文か?台湾社会学者の学術コミュニケーション選択:3人の専門家へのインタビュー」で問われている二択問題への回答はワタクシの周囲ではとうの昔に決着がついている.その記事には「ロールモデルとなるような魅力的な書物との出会いがあるかどうかではないでしょうか」と書かれているが,もうひとつの重要な点は「ロールモデル」となる書き手が身近にいるかどうかということだろう.一冊の本を書き上げるというのは,気力と体力が必要な肉体労働なので,どういう時間配分と心構えで進んでいくかは,書き手の「ロールモデル」があるかないかではずいぶんとちがいが生じるだろう.

学者どもに翻訳をやらせるなっ(2014年7月28日)

http://d.hatena.ne.jp/leeswijzer/20140728/1406772407

The cape of an island の三連記事:

  1. 「岩波あとがき引用」(2010年8月11日) http://textt.net/islecape/20100811141543/4 ※岩波文庫(白帯)から翻訳刊行遅延の「おわびの言葉」ピックアップ.10年,20年,30年と遅れまくるのか……(_φ(・・).
  2. 「翻訳者「25年前に頼まれた翻訳オワタ\(o)/」出版社「え」」(2010年8月23日) http://d.hatena.ne.jp/islecape/touch/20100823/p2 ※この記事は,以前読んだ.
  3. 「雄山「学者どもに翻訳をやらせるなっ!!」中川「ははっ」」(2010年8月26日) http://d.hatena.ne.jp/islecape/20100826/p1 ※さらに続く逸話の数々.

早い話,いまの研究者や大学のセンセに翻訳なんかしているヒマないって.対外的(業績評価とか)には「利得」はほとんどないようなもんだし.やるとなったら,手練のプロの翻訳者と共訳するのがベストのやり方だと思う.ただし,ある本を翻訳して出版社からいただく印税分配は研究者でもプロの翻訳者でも同一なので,印税収入を考えると,確実に増刷がかかるような翻訳を出さないといけない.それはそれでプレッシャー.たとえば,1000部しか刷らない高い学術書の翻訳じゃ,そもそも出してくれる出版社がないだろう.ワタクシだって学術書の翻訳はほとんど手がけたことはない(エリオット・ソーバー『過去を復元する』は例外です).

専門学術書は,それをまたいで通れないかぎられた研究者が原語で読めばいいわけで,あえて翻訳の必要はないだろう.一般向けの本でしかも自分の専門分野に重なるものだと初めて食指が動く.ただ,多くの研究者は翻訳技術が乏しいのでひとりでやろうとすると大迷惑のリスクが高まる.一般書でも専門書でも,翻訳の動機は “自分のためにやっている” 場合がほとんどなので,印税のこととか考えていない.翻訳する研究者の側としては「いつかどこかでだれかの役に立つかもしれない(=売れなくてもいい)」という公共的ボランティア精神で訳すしかないのか.しかし,それでは商業出版の “オキテ” に背くことになるかもしれない.

となると,なんでもかんでもプロの翻訳者とコラボすりゃいいってわけではないことは確かで,「利害が一致するかぎり」という条件が必要になる.たとえ,「印税生活」ということばが夢物語であるとしても.

一方で,そもそも翻訳なんか不要だという見解もたしかにあるかと思う.でもねー,じゃあオマエ,英語はもちろんフランス語やドイツ語やイタリア語の本をごろ寝して苦もなく読み進められるんですかとか詰問されたら返答に窮するでしょう.どこかの誰かが訳してくれた(質のいい)翻訳書があれば読者にとってきっと利得になるのは確かだろう.

ここで問題なのは,「誰か訳してくれないかなぁ」という本があったとして,翻訳によって期待される読者側の「利得」と翻訳するのに必要な訳者側の「コスト」との不均衡があまりにも大きいという点だ.ちゃんと訳せて当然,クォリティーの低い訳文だとけちょんけちょんに叩かれるという境遇に自ら進んで身を置きたい研究者は,よほど奇特な人を除けば,ほとんどいないと思う.

プロの翻訳者のみなさんとはまったくちがう心構えであることは重々承知の上で言うなら,研究者の立場から言えば,翻訳を1冊こなしたら,向こう10年間くらいは「翻訳者」という言葉は禁句にしたい気分であることはまちがいない.

—— この件に関連するツイートは:Togetter -「学術書翻訳の現在:2014年7月30日」 https://togetter.com/li/699831 にまとめられている.ワタクシの場合「人文書」ではなく「科学書」の翻訳を念頭に置いて発言しています.

本を読み終えたら書評文を書きましょう(2014年6月8日)

http://d.hatena.ne.jp/leeswijzer/20140608/1401827296

ワタクシのオンライン書評記事を宣伝に使いたいとの申し出が出版社からあった.どーぞどーぞお使いください.販促のお役に立てれば幸いです.日本の書評文化の昔からの特徴だろうか,長めの書評記事を日本語で読む機会があまりない(新聞・雑誌の書評欄もそう).ワタクシ的には読んで「これは!」という本だったら,備忘メモかたがた短くない書評文を書くように心がけている.最近ワタクシが書いたいくつかの書評記事について文字数をカウントしてみると,短いのは1500~2000字くらい,長くなると3000~4000字ほど書いているようだ.でも,ワタクシが読む Systematic Biology 誌や Cladistics 誌だと,刷り上がりで10~15ページもある長大な「書評論文」が珍しくない.そういうのと比べれば足元にも及ばない.20年近く前に書いた書評:三中信宏 1987. Gene Selectionismは揺らぐか?[書評:E. Sober (1984),The Nature of Selection]昆虫分類学若手懇談会ニュース, 53: 33-60 は刷り上がりで「28ページ」あった.ワタクシ的には最長記録だった.

関連して,ずいぶん前に:豊崎由美『ニッポンの書評』(2011年4月20日刊行,光文社[光文社新書515],東京,230 pp., ISBN:9784334036195 → 目次|版元ページ)の書評を書いた:三中信宏「書評ワールドの多様性とその保全について」.

いずれにしても本を読み終えたら書評文を書きましょう.自分のためにも,他人のためにも.

本か論文か?(2014年4月23日)

http://d.hatena.ne.jp/leeswijzer/20140423/1398127529

川上桃子「本か論文か?台湾社会学者の学術コミュニケーション選択:3人の専門家へのインタビュー」(2013年9月公開,日本貿易振興機構・アジア経済研究所「海外研究員レポート」) http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Overseas_report/1309_kawakami.html 台湾での人文社会科学コミュニティーでの出版をめぐる現状に関する現状レポートだが,日本にもかなり当てはまる興味深い内容だ.もちろん,人文社会科学以外の分野にも通じる.

以下,いくつか備忘メモ:

  1. 「学者としてのトレーニングの過程で、雑誌論文しか読んでいない人は、本を書きたいとは思わない」
  2. 「本を書く人は、とにかく神経が図太くなければなりませんよ(笑)。周囲が次々に成果を出していく中で、「去年のあなたの出版物は?」と聞かれ続けることに耐えねばなりませんからね」– 本だけを書く研究者はさぞかし風当たりが強いだろうなあ
  3. 「本――もちろん「優れた本」という限定つきですが――には、論文にはない持続的な影響力が生まれます。学界の流行が過ぎると多くの論文が読まれなくなるのに対して、根源的な問いと向き合った優れた本は、長期にわたって、読者に影響を与え続けます」– うんうん
  4. 「しかし、評価システムのプレッシャーのなかで、論文を成果発表の中心とせざるをえない状況が生じています。けれども、より重要なのは、大学院等でのトレーニングの過程で、ロールモデルとなるような魅力的な書物との出会いがあるかどうかではないでしょうか」
  5. 「今の台湾の若い世代の研究者が直面している環境は、ありていに言って、本を書くことを罰するものです」
  6. 「本を書くには時間がかかるのに報われないのだから、若い研究者が本を書かないのは当然です」.

論文も残さず “完食” しよう(2014年3月2日)

http://d.hatena.ne.jp/leeswijzer/20140302/1393710091

Y!ニュース・中原淳「論文が読まれなくなっている!?・・・「研究のカプセル化」と「読者のいない論文」」(2014年2月26日)※論文はもともと研究者が自分のために書いているだけなので,他の読者に読まれるかどうかはどうでもいいこと.ジャーナルのインパクト・ファクターや研究者の h-index からは,どれくらい「引用されたか」を定量化することはできても,どれくらい「読まれたか」は見えてこない.その一方で,最近の学術誌は,読者が「論文を全部読まなくてもいいような技法」を次々と繰り出している.たとえば,アブストラクトと図表だけピックアップしたり,めんどうな materials and methods は小さい活字にして末尾に追いやったり,研究の詳細は online supplements に封印したり.「論文が読まれなくなっている」のは当然の帰結ではないだろうか.論文をまるごと読むのではなく,必要部分だけを切り出して “情報摂取” すればいいという風潮は読む側にも読ませる側にも広がっている.

本は残さず “完食” しよう(2014年2月28日)

http://d.hatena.ne.jp/leeswijzer/20140228/1393533194

YOMIURI ONLINE「本を読まない大学生、初めて4割超す…生協調査」(2014年2月26日).要するに「本」を丸ごと読まなくなってきたということね.「本」ではない「活字情報」であれば,もっと “摂取” しているだろうけど.研究者であっても,自分の専門分野の「本」を丸ごと(=「序文・目次から索引まで」ということ)読まないことが多くなってきたのでは? 専門書の電子本でも各章ごとの「切り売り」さえ見られる現状ならけっしてフシギではない.専門分野のジャーナルだって,いまは論文ごとの「切り刻み」を pdf にしてばらまいているようなもの.ある巻のある号の「全体」を見わたすことってやってないんじゃない? 

「あるジャーナルのバックナンバーを創刊号から最新号まで通読する」というのは,ワタクシの大学院時代に心がけていたことです.しかし,こんなにジャーナルが増えて投稿数もうなぎのぼりになったのでは,そーいうやり方は通用しないかも.にもかかわらず,「本」や「ジャーナル」を丸ごと読む行為には意義があると信じている.「本」でも「論文」でも,「必要最低限」の知識断片を拾い読みですませてよしとする風潮かなあ.取扱説明書やマニュアルの拾い読みみたいな感じ.

ワタクシが一冊の本を書くときは,読者にも(編集者にさえ)わからないような伏線をそっと張り巡らすのを愉しみにしている.一部分だけ拾い読みしたのではけっしてわからないように.それは書き手だけの悦楽.本はほかならない自分のために書いている.〈ブクログ〉や〈読書メーター〉で自分の本に関する「書評確率分布」を構築すると,匿名書評者たちがどの程度の「読む取る力」があるのかが見えてくる.書評者たちは,自分が書く書評文の集積(=書評者ごとの「周辺分布」)を通して,逆に評価されているということ.

ワタクシの場合,そういう微かな伏線はペダンティックな引用文に潜んでいることもあり,本文中の文章に埋め込まれていることもある.場合によってはカバージャケットのウラ側に本質が潜んでいることもある.ちゃんと読まないとわからないように.一度だけ,絶対にわからないはずの伏線を見つけてしまった書評者がいて,あのときは震え上がった.目利きの読者はいるところにはちゃんといるんだ.そういう読者に向けてワタクシはこれからも本を書こうと思う.

—— 本や雑誌の必要箇所だけを拾い読むことは「情報摂取」ではあっても「読書」とは呼ばない.

深いフトコロが埋め立てられると(2012年8月4日)

http://d.hatena.ne.jp/leeswijzer/20120804/1344036785

つい先日のことだが,とある出版社から「統計本を一冊書きませんか」とのオファーが提示された.しかし,このところのドロナワな状況を考えると,さすがにムリなので,「ごめんなさい」メールを返信.短期的に出せるアイデア量に上限があるように,近未来的に達成可能な労働量にも上限がある.いわゆる〈文債〉を抱え込むことはそろそろやめにしないとね.

長期の夏休みもサバティカル制度もない独法研究員が本を一冊書くことは綱渡りを続けるようなもの.代償として多くのものを放置しているわけで,それに耐えられないと本は書けない.単著の本に関して言えば,ワタクシの場合,もっぱら出版社側からのオファーを受けて書き始めるので,それはたいへんありがたいと思う.ただし場合によっては「ごめんなさい」と断ることもある(すみませんすみません).ときどき「どうやって出版社を見つけるの?」と同僚から訊かれることがあるが,自分から原稿を持ち込んだことはぜんぜんないので答えようがない.

そういうことを考えると,初めてワタクシに単著のオファーを出してくれた東京大学出版会には今でも深く感謝している.その本『生物系統学』の第四刷に向けての作業はいま進行中だ.『生物系統学』の最初の企画提案が東大出版会からあったのはワタクシが35歳のときだった.もともとは『分岐分類学:系統と進化を探る方法論』というタイトルで,分岐学(cladistics)の解説本になるはずだった.しかし,原稿を書き始めた1990年代はワタクシが研究者としてどんどん「不良化」していた時期で,内容的にも生物体系学の一学派にとどまらなくなってきた.途中で,担当編集者から『生物系統学』にしませんかとのプロポーザルがあって,名実ともにその通りになった.結果として執筆に五年ほどかかった末,39歳のときに出版にこぎつけた.今にして思えば,得体のしれない書き手に好き放題書かせてくれた東大出版会には感謝するしかない.

現在の独法研究所の置かれている状況だと,研究員が「本を書く環境」はさらに悪くなっているだろう.「糊しろ」や「溜め」を保証する人員あるいは研究資本がやせ細ってきたので,かつてはあったはずの「深いフトコロ」がどんどん埋め立てられている気がする.だから,「本を書くこと」の代償やリスクは以前よりも大きくなっているのかもしれない.いろいろあるけどそれでも本を書きますか?って感じ.同じ農学分野でも,農業経済だと「単著本」はとても評価が高いが,それ以外の(自然科学系の)農学分野だと,当然のことながら,査読付きペーパーが重視される.査読論文を書きながら単著本も書けというのは「二人分生きろ」ってことと同じ.

研究者としてキャリアが存続するかぎり,「積分範囲」はどんどん大きくなり,結果として自分の立ち位置が鳥瞰できるようになる.しかし,年取ってから懐古的に「守りの本」を書くよりも,まだ自分がどうなるかわからないときにしか書けない「攻めの本」の方がワクワク感が高い.そういう本を書けるチャンスがある研究者は機会を逃さず書いてほしいと思う.

論文と本では流れる時間が異なっているので,論文を書くときの「微分主義」的な研究者スタンスとともに,本を書くときの「積分主義」的な研究者人生観をもつ必要がある.

俺たちに本を書く時間はない(2012年3月16日)

http://d.hatena.ne.jp/leeswijzer/20120316/1331472817

かつて,とある本の原稿を依頼され,例によって進捗が滞っていたら,「夏休みか冬休みの時間のあるときにまとめて書いてください」と言われた.大学ならまだしも独法研究所にもそんな「休み」があると世間では考えられているのかと愕然とした.大学の「夏休み・冬休み」はあくまでも学生にとっての休暇であり,教員やポスドクのものではない(と思う).ましてや,学生がいない(ことになっている)独法研究所にはそういう「長期休暇」の観念それ自体がない.

大学ならば,研究者が長期の休みを取ろうと思ったら,「サバティカル制度」が置かれているところもある.たとえば東大なら「東京大学教員のサバティカル研修に関する規程」に定められているとおりだ.実際に希望者がいつでもそれを使えるかどうかは別問題だが.しかし,独法研究所の研究員には大学並みの「サバティカル制度」はまったくない(少なくとも農水関係では).だから,まとまった自由時間を使って何かをするという制度はそもそも存在しない.

研究者がまとまった時間をもてないことは,日々走り続けているときはえてして自覚されにくい.常時┣┣" たちに囲まれて気がつけば一日が終わってしまう.思い当たる人はきっと多いだろう.そういう慌ただしい日常が長期間累積されて,ある日ふと気づくわけだ.

「私はいったい何やってんだろう?」って.

以前の新聞記事だが:鎌田浩毅「優れた教科書」(2001年7月24日)は,日本の大学教員は多忙すぎて専門分野の教科書を書く時間がなく,彼我の格差をさらに広げていると指摘している.この点は独法研究員だって同等だろう.また,先月の記事:現代ビジネス「アメリカ人新聞記者は1年間のサバティカル休暇をもらって本を書く」(2012年2月16日)にも,日本の職場環境でサバティカルがとりづらいことが執筆時間を確保できない要因だと指摘されている.

まとまった文章を書いたり,しっかりものを考えたりするのに,細切れの時間ではどうしようもない.自分が関わってきた研究活動を自分でまとめるという作業を研究者自身がしないことには,悪い意味での「歯車」あるいは「部品」で終わってしまうかもしれない.主体的に使えるまとまった時間をもつということは,それくらい大切なことだとワタクシは思うのだが,どうもその認識はあまり共有されていないように日々感じている.日々の研究の蓄積を研究者自身が知らないどこかで自分ではない誰かが勝手に「取りまとめて」パブリックな研究成果として「対外的に広報する」というのでは,いつまでたっても研究者自身が自分の仕事を体系づけることはできないだろう.

もちろん,本を書くだけが唯一の選択肢ではない.しかし,それ以外の選択肢を考えるときも,まとまった時間が必要であることにはちがいがない.昼夜走り続ける大学や独法研究所の研究者は立ち止まって考える時間と余裕がいつかはどこかで必要だろうと思う.

—— さあ,自分の「森」に帰ることにしよう.


京都大学学際融合教育研究推進センター『異分野融合、実践と思想のあいだ。』(2015年3月31日刊行,京都大学学際融合教育研究推進センター,京都,119 pp. http://union-a.co.jp/publish/

【書評】科学研究の “異分野連携” から “異分野融合” へ
http://d.hatena.ne.jp/leeswijzer/20150516/1431485489

異分野の研究者を “つなぐ” ことを目指してつくられた京都大学学際融合教育研究推進センターの公式ガイドブック.前半の第1部「異分野融合の実践」(pp. 8-65)では,このセンターがこれまで実際に手がけてきた「異分野融合」の事例がコンパクトに示されている.異分野ネットワークになりそうな “卵” を「ユニット」と命名して育てたり,敷居の低い「分野横断交流会」を定時的に開催したり,学際研究着想コンテスト,産学連携,ワークショップ支援など,このセンターがさまざまな試みをしてきたことがよくわかる.具体的な実践例を本ガイドブックの前半にもってきたことで,読者は「異分野融合」のイメージが容易につかめるだろう.

後半の第2部「異分野融合の思想」(pp. 66-107)は,このセンターを切り盛りしている宮野公樹による,異分野融合の「理念」の解説である.そもそも異分野の研究者あるいは研究者コミュニティーを「融合」するとはどういうことかというもっとも核心となる理念がくわしく説明されていて,ワタクシにとってはとても興味深かった.

著者は言う:

そもそも,学問の細分化は歴史的なもの.今の学術界は,数世紀をかけて現在の形態になった.それを無視して「重層化する課題解決には分野融合が必要」と一言述べたところで,歴史によって積み重なった学術界の形態が一瞬で変わるわけがない.本当に “分野融合” を推進したいのであれば,現状にいたる “分野分裂” に要した時間と同等かそれ以上の時間をかけなければならないだろう.(p. 69)

個々の学問分野は時空的な進化体なので,科学の歴史の中でどのように変遷・分裂・消滅・融合するかは,著者が正しく指摘するように,おいそれと変更できるものではないだろう.著者はさらに続けて言う:

そもそも「異なる分野の研究者が連携,協働する」という内容は異分野 “融合” ではなく,異分野 “連携” である. “連携” の推進には,効果的なマネジメントを適用すればいいだけである.一方,本来研究者の内発的な同期から生じるべき学術分野間の “融合” には「管理」という概念はそぐわない.(p. 71)

著者は,ここで異分野の研究者レベルでの “連携” とそれをさらに進めた異分野そのものの “融合” とを分けて考えていることがわかる.ワタクシ個人の実感としてもそれは妥当な見解だろう.研究者レベルでの “連携” や “交流” はフットワークさえ軽ければ(研究資金があればなおありがたい)なんとかなる.しかし,異分野レベルの “融合” となるとそんなに簡単なことではない.分野がちがえば “文化” がちがうから.

著者の考えでは,“異分野連携” は特定の目的を掲げた協力体制の構築であるのに対し,“異分野融合” はもっと普遍的な真理探究にある.ここで気になる点は,異分野の “融合” を誰が担って進めていくのかである.著者は “融合” の推進者は意識をもった個々の研究者であると指摘する:

いうまでもなくその学術分野の融合が生じる場面は,他ならぬ個々人の内側にある.つまり,「異分野融合」とは,他の世界観に触れて体得した個々人の実践の言語化を通じて,学者自身の内面で生じる啓発(気づき)のことである(p. 75)

しかし,実際には時空体としての個々の研究分野が “融合” するまでには,今を生きている研究者個人ではどうしようもない歴史的経緯や文化的伝統,そして研究者コミュニティーのなかの社会的ネットワークの動態という要因が横たわっている.著者自身,その点は十分にわかっているようだ:

連携は短期的だが,融合は長期的.
連携は科学的だが,融合は人文的.
連携は制度的だが,融合は歴史的.(p. 77)

手始めに異分野間で発生した “連携” は,科学者コミュニティーの中での適応度が高ければ,首尾よく生き残って「学際分野」となる(p. 89).しかし,著者はそのような制度的な「学際分野」はそのままでは “異分野融合” にはならないと言う.歴史的時間軸の重要性がここで強調される:

特に今日誕生するような学際分野は,得てして政策的意図を含んでいる.これは,異分野 “連携” ではあるが,一定の歴史を積み重ねて学術界全体のなかで定着したとき,おそらくそれは伝統学問として認知される.(p. 89)

著者は研究者ひとりひとりの “構え” が学際的連携には求められると主張する:

学際研究とは,「真理を追究したい」という研究者の内発的動機によって,他の研究領域に関心を持つことから始まる.異分野間で対話がなされ,対立的衝突が起こる.さらに,対立の後に個々人の内面にて世界観の再構築がなされれば,それが「融合」だ.(p. 93)

著者の言う “連携” を超えた “融合” を目指すためには,研究者は自分が属する研究分野(および周辺関連領域)の歴史的変遷と科学社会学的動態を “枠組み” として正しく認識する必要があるのだろう.残念ながら科学史や科学哲学の素養のない(大半の)研究者にはそれを期待できないところが問題となるかもしれない.

ワタクシがいま過ごしている生物体系学の分野は歴史的にみれば,言語学や文献学あるいは歴史学との接点があるので,分野の壁を超えたつながりはすでに部分的に進みつつある.さらに,この分野は研究者コミュニティーとしての科学社会学的動態もたいへんアクティヴなので,これから新たな “連携” や “融合” の契機もありそうだ.おそらく,他の研究分野でも同様のシーズなりニーズは水面下にまだまだたくさん潜んでいるだろう.研究者個人が活動しているいまの研究分野を越えて他のどの分野と “連携” や “融合” を目指せばいいのかという「最初の一歩」がたいせつだろう.本ガイドブックを手がかりに,多くの読者が自ら “壁” を越えていくことを期待したい.


鈴木哲也・高瀬桃子『学術書を書く』(2015年9月25日刊行,京都大学学術出版会,京都, vi+155 pp., 本体価格1,700円, ISBN:978-4-87698-884-6)

【書評】学術書は “三回り外” まで目を向けよ
http://d.hatena.ne.jp/leeswijzer/20151106/1446796041

本書は,専門的な「学術書」を出版する側から見たときのさまざまな問題点とその解決策について,具体的な事例を挙げながら論じている.出版企画が立ち上がってからの内容構成のポリッシュアップそして原稿執筆(第II部「書いてみる」),続いて実際に原稿がそろったあとの印刷所への入稿以後の工程への配慮,さらには見出しと索引の作成法にいたるまで(第III部「刊行する」),執筆する側には必ずしも見えていなかったことが本書には書かれている.しかし,ワタクシ的には,第II部と第III部に先立つ序章と第I部「考える」がとても考えさせる内容だったので,以下ではこの部分に焦点を絞ることにする.

冒頭の序章「Publish or Perish から Publish and Perish の時代へ ― なぜ,学術書の書き方を身につけるのか」(pp. 2-14)では,そもそも学術書を出版することにどのような意義があるのかを問いかける.ひとつの側面は科学コミュニティーのなかでの専門書の位置づけの変化である.20世紀末の科学における成果主義と競争原理のもとでは,研究活動のアウトプットとして専門的な出版物を出し続けなければ生き残れない(「Publish or Perish」)傾向がますます強まっている.序章では,その反映が学術出版の世界的傾向として現れていると指摘とされる.すなわち,出版物の売上額が全体として低下する中で,大学出版部の数は逆に増えているという事実は,研究成果としての学術書をたとえ出版したとしても読まれない(「Publish and Perish」)状況へと事態はさらに変わりつつあると著者は言う.

このような学術書をとりまく厳しい状況をふまえて,著者は次のように宣言する:

それでも研究者として評価されるためには,「Publish」の営みを続けなければならない.とすれば,「Publish」そのもののあり方を根本から見なおして,真に意味のある出版をしようではないか.学術書の書き方を考えることは,そのために大いに役に立つ,というのが本書の提案です.(p. 11)

続く第I部の第1章「知識か「情報」か ― 電子化時代の「読者」と知のあり方」(pp. 17-31)では,電子出版が広く普及した今の時代に,専門的な学術書を一般読者へどのようにアピールすればいいのかという問題を提起される.つまり,見えなくなってしまった読者をいかにして連れ戻せるのか.これは本書全体を貫く問題である.紙の出版物から電子出版物への移行は1990年代に入って急激に進む.その一方で,学術ジャーナルの電子化とともに,出力される論文の内容がどんどん狭隘化してきた(p. 25).著者は,この狭隘化は,学術「出版」が学術「情報」とみなされる背景と関係していたと指摘する(p. 28).確かに,学術書よりも雑誌論文が重視されてきた自然科学では,学術「情報」と言われてもあまり違和感はない:

しかし問題は,こうした考え方が,一つの体系としての歴史の中で組み上げられてきた「知識」を,単に個別に切り分けられたものとして見なしてしまうような雰囲気を醸し出したことではないか.(p. 29)

学術「知識」がひとつの体系(システム)であるならば,それを細分化した「情報」の破片との差異は明白だ.ワタクシが知っている範囲でも,最近の学術書の電子本のなかには,たとえ単著であっても,章ごとに「切り売り」されていることが少なくない.本全部ではなくどこかの章だけ買う人っているんだろうか.論文集だったらわかるけど,単一著者本の「部分買い」をする購入者の動機とその “読み方” がとても気になっている.

次の第2章「知の越境と身体化 ― 学術書の今日的役割と要件」(pp. 33-45)では,学術的な「知識」の体系としての学術書の意義について考察を深める.そもそも,断片ではないひとまとまりの体系としての「知識」はなぜ必要とされるのだろうか:

以上のような「狭隘化」の問題は,学部―大学院の接続だけでなく,高校から学部へ,あるいは大学(大学院)から実業界へという,進学・進路のあらゆる場で共通しているように思えます.大学院重点化等の制度的問題に加え,前章で指摘したように,必要な「情報」を必要なときに逐次的な参照すればよいという風潮が教育の場に広がったこと,あるいは「専門外の専門を学ぶ」重要性すなわち「教養」あるいはリベラル・アーツ重視の作法が失われたことが,こうした深刻な社会的状況を招いたのではないか,と筆者は考えているのです.(pp. 37-38)

このように,学術知の体系を習得する上で学術書にはまだ存在意義があると著者は言う.では,この目標を掲げた学術書はどのように書かれるべきか ― 著者は「二回り外,三回り外の専門家に向けた本」(p. 13)という巧みなモットーを提示する.視界から見えなくなってしまった読者を取り戻し,さらには偶然手にとった読者をも引き込むような学術書 ― 著者はそのような本造りをするための大技小技を,以下の第II部と第III部で開示していくことになる.

著者が勤務する京都大学学術出版会が出す「学術書」はいかにも「大学出版会の本」のイメージ通りの造本で店頭に並ぶ.しかし,「紙の本」の出版体裁は内容とはほとんど無関係といえる..とくに,近年多くの出版社が参入し,その結果 “変異” がとても大きくなった「新書」のスタイルだと,アタリハズレも少なくないし,不注意に手にすると “噛まれる” ことがある.たとえば,ワタクシが講談社現代新書から出した『系統樹思考の世界』と『分類思考の世界』の2冊の “書評頻度分布” を見ると,「新書なのに難しすぎる」という感想が意外に多い.

「新書だからきっと読みやすいだろう」という先入観は期待値としては当たっているかもしれないが,内容的な “分散” も無視できないほど大きい.講談社の担当編集者はかつて「コンテンツをたまたま “新書” というフォーマットに詰め込むだけです」と言っていた.だから,ワタクシの書いた現代新書2冊は「新書」という仮面をつけた専門書だと考えた方がいいだろう.“流動食” のような新書ではけっしてない.原稿の分量だってどちらも400字詰にして400枚以上書いたので,ハードカバー本で出せたかもしれない,しかし,ああいう晦渋な内容で(おいっ)専門書ジャンルとして出したら,印刷部数は大幅に少なく(重版も危ういだろう),価格はきっと数倍になり,必然的に読者は数分の一に減ったはず.新書,ありがとう(そこかっ).

内容的には学術書であっても,体裁的には新書で出すという出版戦略はきっとありえるだろう.ただし,担当編集者による “査読” はものすごくきびしくなる.提出した原稿のリジェクトや major revision,素行が悪いと “独房” 監禁さえある(複数の大手出版社の体験).新書だからといって好き放題書けると思ったら大間違い.編集者と校閲部のレフリーには脂汗が出た.

多くの潜在読者層にアピールするには努力に努力を重ねるしかない.それは学術書も新書も同じ.本書『学術書を書く』からは,学術書をつくる側の心意気が強く伝わってきた.それにしっかり応えるのは書き手の側にかかっている.


橘宗吾『学術書の編集者』(2016年7月30日刊行,慶應義塾大学出版会,東京, xii+198+7 pp., 本体価格1,800円, ISBN:978-4-7664-2352-5)

【書評】 http://d.hatena.ne.jp/leeswijzer/20160831/1472650679

学術出版界でいまもっともぶいぶい言わせている名古屋大学出版会編集長の手になる本.売れないのに売れる秘策はあるのか.章立て:「序章 学術書とは何か」「第1章 編集とは何か:挑発 = 媒介と専門知の協同化」「第2章 企画とは何か:一つのケーススタディから」「第3章 審査とは何か:企画・原稿の 「審査」 をどう考えるか」「第4章 助成とは何か:出版助成の効用と心得」「第5章 地方とは何か:学術書の「地産地消」?」「付録 インタビュー「学問のおもしろさを読者へ」」.

ワタクシ的には,他の章よりも,実は「序章 学術書とは何か」(pp. 1-22)がもっとも印象に残った.本文が20ページそこそこなのに,その注が10ページあまりもある(pp. 167-177).いまの研究の趨勢の中での学術書の位置づけと著者なりの「学術書観」が浮かび上がってくる.著者は言う

「(電子ジャーナルを主とする)自然科学系の学問モデルの規範化が学術の世界全体で進み,それによって生じたのが,後述する,論文概念の無差別化・一般化と論文中心主義の全域化であり,書籍の軽視です.そこでは書籍は,こうした論文の束か,長めの論文だと見なされ,もしそうでないとしても,論文で書かれた内容を希釈した二次的な文章が掲載されるものと見なされる傾向が生まれます.そして論文がすべてそのまま電子化されるならば,紙の学術書にはもはや用がないか,二次的なものにすぎない.しかし,それは違う,というのが本書の考えです」(p. 15).

著者は論文=情報断片と書籍=全体体系を対置している:

「知識に情報としての側面があることを否定するつもりはありませんが,知識には,それを身につけようとすることによってその体系性・全体性に触れ,その全体を隅々まで知らないままそれを経験するという側面もあるでしょう」(p. 16).

著者が「情報には作者は存在せず,読者もまた存在しない」(p. 18)と言うとき,書籍は「作者」の手になる「作品」であるという著者の立場が浮かび上がる.書籍の書き手はサラミをスライスするのではなく,作品を創りあげることが求められている,と.