EVOLVE reader 諸氏:

三中信宏(農環研← PPP from 自宅)です。

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【著  者】エルンスト・マイア(Ernst Mayr)
【訳  者】八杉貞雄・松田学
【タイトル】『これが生物学だ:マイアから21世紀の生物学者へ』
【刊  行】1999年06月20日
【 出版社 】シュプリンガー・フェアラーク東京
【 ページ 】xvi+324pp.
【ISBN】4-431-70831-6
【本体価格】3,200円
【原  書】Ernst Mayr 1997.
"This is biology: the science of the living world"
The Belknap Press of Harvard University Press,
Cambridge, xviii+327pp.(hbk/pbk)
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1997年にハーバード大学出版局から出た原書のタイトル"This is biology"を見たとき、「よくもこんな大仰なタイトルを付けたものだ」と私はなかばあきれました。しかし、過去半世紀にわたるマイア自身の科学史・科学哲学界における主張をふりかえったとき、「これぞ生物学なり」という以外に総括すべきうまい言葉はきっとなかったのでしょう。確かに、著者にとって本書のタイトルは実に的確なのです。

本書は、マイア自身がその発展に大きく貢献した「生物哲学」(philosophy of biology)に関する本です。内容的には、すでに翻訳されている『進化論と生物哲学』(八杉貞雄・新妻昭夫訳,東京化学同人)に続く第2弾に当たりますが、本書は専門的内容を絞り込んで一般読者向けに書き下ろされており、よく練られた構成の本という印象を受けました。

「生物学とは何か」そして「生物哲学とは何か」という大きな二つの疑問に対するマイヤの解答は明快です−「生物学が物理科学とはまったく異なる種類の科学である」(訳書, p.v)ために、「新しい科学哲学」(p.vi)の構築が何としても必要だった、ということ。マイアのこの深層動機を通奏低音として、集団思考(population thinking)・歴史叙述(historical narrative)・個物説(individuality thesis)・確率主義(probabilism)そして創発(emergence)などさまざまな旋律が絡み合います。これら全体に対位するのは「本質主義」(essentialism)に支えられたクラス(類)の科学−物理科学−です。

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【目次】

日本語版への序文
謝辞
1章 「生命」の意味するもの
2章 科学とは何か
3章 科学は自然界をどう説明するか
4章 生物学は生物世界をどう説明するか
5章 科学は進歩するか
6章 生命科学はどのような構造をもっているか
7章 質問「何が」:生物多様性の研究
8章 質問「いかに」:新しい個体の形成
9章 質問「なぜ」:生物進化
10章 生態学は何を問うか
11章 ヒトはどこで進化に適合するか
12章 進化は倫理を説明できるか
訳者あとがき
参考文献
索引
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本書は狭い意味での生物学の本ではなく、むしろ生物哲学の本として読まれるべきでしょう。ここ数年の間に"Philosophy of biology"と銘打った本が何冊も出ています。その中でも、本書がもっともとっつきやすい本であることは明らかです。したがって、翻訳者にはもう少し細心を払った訳が望まれました。

本書に多くの誤訳が含まれていることは、すでに小野山敬一さんが[5794]で指摘しています。科学哲学に関する誤解はまだしも(訳者らは科学哲学の専門家ではないから)、生物学に関する誤訳が頻出することは本書の訳書としての価値を著しく下げているように私は感じられました。

以下は、私が一読して気づいた「誤訳リスト」です。

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【『これが生物学だ』誤訳リスト(13/Oct/1999 version)】

●本文について
「ジュリウス・ザックス」(Julius Sachs)(p.7)→ユリウス・ザックス
「相互に変換して」(interchangeably)(p.19)→同義的に
「ホイッグ党的」(the whiggish treatments)(p.27)→ホイッグ史観からの見解
「常識的リアリズム」(p.41)/「常識的現実主義」(realism)(p.67)→"realism"の訳語が不統一でしかも、「現実主義」は誤訳。
「E.M.カー」(p.44)→「E.H.カー」
「『生物学的思想の成長』」(p.45)→訳語不統一
「フォイエルアーベント」(p.48,66,76,119)→Paul K. Feyerabend 自身は「ファイヤーアーベンド」と呼ばれたがっていたはず。
「実務家」(p.62)→「プラグマティスト」
「すべてうまくいく」(Anything goes)(p.66)→なんでもかまわない ※「すべてうまくいく」んだったら、ファイヤーアーベンドは草葉の陰で大喜びしている..(^^)
「現実主義者」(realists)(p.67)→実在論者(実念論者)
「グループ選択」(group selection)(p.69)→群淘汰(群選択)※訳語不統一(「群選択」が後出:p.226)
「実在論」(realism)(p.70)→実念論(スコラ哲学における)
「『未完の問い』("Unended quest")」(p.70)→『果てしなき探求』 ※ポッパーが怒るで、ホンマに。
「疑問を乞うている」(question-begging)(p.71)→質問に答えない
「系統分類学」(systematics)(p.71,112)→体系学
「歴史物語」(historical narrative)(p.81)→歴史叙述 ※p.vi では正しく訳されているのに。
「無作為の過程」(random processes)(p.84)→「ランダムな過程」あるいは「確率過程」
「分断分布」(vicariance)(p.85)→分断
「分断分布派」(vicarianists)(p.85)→分断主義者
「蓋然論」(probabilism)(p.86)→確率主義
「コンラド・ローレンツ」(p.91)→コンラート・ローレンツ
「科学的現実主義」(scientific realism)(p.90)→科学的実在論
「確実性への問い」(The quest for certainty)(p.94)→確実性を求めて
「普通科学」(normal science)(p.112,121)→通常科学
「体系分類学」(macrotaxonomy)(p.113,152,159,174)→マクロ分類学 ※いったい誰が「体系分類学」なんていう訳語をひねり出したんだ!
「確率論的過程」(stochastic processes)(p.116)→確率過程
「系統分類学の研究」(phylogenetic researches)(p.118)→系統学の研究 ※直後に「系統学的位置」(phylogenetic positions)という適切な訳語が出ているのに。
「系統学」(systematics)(p.119,150)→体系学
「ラカトス」(Lakatos)(p.127)→ラカトシュ ※ハンガリー出身
「リストラ」(restructuring)(p.141,195)→ ※訳語としてすごく違和感がある
「種分類学」(microtaxonomy)(p.152)→ミクロ分類学 ※造語責任者、出てこい!
「種を関連したグループに」(species into related groups)(p.152)→種を近縁群に
「高等タクソン」(higher taxa)(p.153)→高次タクソン
「『系統学と種の起原』」(Systematics and the origin of species)(p.155)→『体系学と種の起源』
「パターソン」(Paterson)(p.157)→ペイタスン
「パーシモニー最節約法」(parsimony)(p.166)→最節約法 ※訳語は parsimonious にね。
「分岐論」(cladification)(p.167,168,171)→クレード化 ※こうしないと cladistics との間に混乱が生じる(p.174みたいに)
「系統樹の作成」(phylogeny construction)(p.174)→系統構築
「クラス分け」(classification)(p.174)→分類 ※ ^^;;;
「分類学が...系統学者によって」(systematics ... by systematists)(p.174)→「体系学が...体系学者によって」 ※もはや何をか言わんや...
「メッケル−セレス」(Meckel-Serres)(p.189,196)→メッケル−セレ。
「食用にされる/されない」(palatable / unpalatable)(p.216)→餌になる/ならない ※主語はヒトではない
「性選択」(sexual selection)/「雌選択」(femele choice)(p.217)→性淘汰/雌選択 ※ほーら、selection を「選択」なんて訳すから、こういう混同が起きるのよっ。
「明らとなった」(p.275)→「明らかとなった」
「オーガスト・コーン」(Auguste Comte)(p.284)→オーギュスト・コント
「包括的適合性」(inclusive fitness)(p.284-286)→包括適応度
「ポール・エーリッヒ」(Paul Ehrlich)(p.301)→ポール・エーリック

●「参考文献」リストについて
科学哲学関連の日本語訳がほとんどすべて欠落している。ポパー訳書群は全滅、ファイヤーアーベンドも壊滅、カッシラー、ヘンペル、ハンソンももちろん欠落、ラカトシュ?誰それ。おおっ、J. Huxley 1942, Evolution: the modern synthesis の大著がいつの間にか訳されていたのね(長野敬他訳『進化とは何か』講談社)。知らなかったなぁ(もうビックリ ^^;;;)。

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本書では訳語に対する原語を併記しないスタイルを取っているので、文中に「不適切な訳語」があったとしてもそれがいったい何を指しているのかかいもく手がかりがつかめません。

上の誤訳リストは暫定的なものですので、他にもありましたらぜひ私までご一報ください。このリストが整備された時点で、出版社と翻訳者に郵送するつもりでいます。

ご協力よろしく。