太田邦昌君と「若手の会」立ち上げの頃


鈴木邦雄(富山大学理学部生物学教室)

ほぼ同世代の内藤親彦(ユ42生)・屋富祖昌子(ユ43生)・太田邦昌(ユ44生)・矢 田脩(ユ46生)の4氏と語らって,筆者(ユ44生)が「若手の会」を立ち上げたのは,1970年.当時,矢田さんは九大教養部の技官をしておられたが,太田君は東大農学部,屋富祖さんは九大農学部,内藤さんは神戸大農学部,筆者は都立大理学部のそれぞれ大学院生だった.それから33年,今も若手研究者によって活動が継承されていることに喜びと感慨を禁じ得ない.「若手の会」立ち上げ当時,さまざまな批判や‘抵抗’もあったが,当時の昆虫分類学界の状況や関係学会の年次大会の雰囲気などを思い返す時,あの時点で「若手の会」を組織したことの意義は小さくなかったと思う.当時,筆者にとっては,分類学(広義)の将来への展望を希望的に描けるかどうかは,さらに自分の研究の位置づけ・意義づけをどのように行うかは,最大の課題であり関心事だった.それは,若手研究者にとっての共通の課題でもあるはずだった.昆虫分類学を志す若手研究者にとって,材料(対象)となる分類群を異にする研究者間の意見交換や議論を活発にさせていくことが何よりも重要である,と筆者は「趣意書」に記している.太田君は,そうした意識を共有し,真剣に議論できた数少ない,しかももっとも身近な‘仲間’だった.80年代半ば以降の太田君の言動からは想像もできないし,彼が本心でどのように思っていたのか,むしろ今になって筆者は不可解な気持に襲われたりもするが,「全国の若手研究者を横に繋ぐ組織が必要ではないか.誰もやらないならわれわれだけでもやらないか」という相談を真先に彼にもちかけたのも,彼に対する強い同志意識が根底にあったからだと思う.思えば太田君とは個人的にも不思議な因縁だった.太田君の学問的な業績に対する評価などについては,粕谷英一・三中信宏両氏から充分に語られると思うので,今回のシンポでは,多少個人的な思い出話もさせていただこうと思う.併せて‘若手だった’われわれの目に映っていた「若手の会」立ち上げの頃の昆虫分類学界の雰囲気や,既にOBになって久しい者の立場から,「若手の会」の今後の活動に対する期待や希望などについても語りたい.