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人間社会による環境の悪化が地球規模で生態系の変貌と生物多様性の損失をもたらしつつある.生態系の状況をモニターし,必要に応じて生物の保全施策を講じることは,現代の生物学とりわけ生物分類学に期待される大きな責務である.しかし,そのためには生物の多様性が示すパターンすなわち生物分類がどのようにして生物界を把握しようとしてきたかを理解する必要がある.
しかし,本書の著者は,生物の分類体系構築をめぐっては,われわれ人間がヒトとして本来もっている認知心理的なグルーピングの先天的傾向性と科学的な分類学・系統学が支持する結論との間で根本的な衝突が生じていると指摘する.生物の形態や遺伝子をいくら科学的に分析して合理的な分類体系を生物分類学者たちが提示したとしても,それが一般社会にすんなりと受け入れられるとはかぎらないという事実を著者はいくつもの実例を通して読者に示している.
この問題に斬り込むアプローチとして本書が採用するのは,生物としてのヒトが自然界や生物界をもともとどのように理解してきたかを,分類者と分類対象とが一体となって構築する「環世界(ウムベルト)」-ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの造語-からもう一度考えなおそうという観点である.
ヒトにとっての環世界センスは,人間が長い時間をかけて進化してきた過程で自然淘汰によって獲得された,さまざまな認知心理的傾向の産物である.著者は,ヒトのもつ認知的傾向を人類進化学ならびに心理学から分析するとともに,医学的な症例をも挙げて,外界を分類するという行為がいかに人間の生物学的側面と深く関わっているかをわかりやすく説明する.
さらに,本書は,ヒトにとっての環世界センスから見た生物分類観を踏まえた上で,生物分類学の長い歴史の中で,科学としての分類が生きものがどのように分類されてきたかをリンネの時代にさかのぼって再考する.そして,分類学が近代化されるとともに,科学的な分類が環世界センスと矛盾するようになってきたと指摘する.客観的な科学的分類は賞賛されるべき「善の樹(arbor bona)」であるのに対し,環世界センスに基づく直感的分類は葬られるしかない「悪の樹(arbor mala)」なのだろうか.
本書の最後のセクションでは,それまで積み上げた議論を総括して,乖離しつつある科学的分類と人間的本能とをどのように融和できるのか,変わりゆく生物多様性の新たな理解に向けてどのような一歩を新たにふみ出せばいいのかについて著者は問いかけている.
生物の「分類」に着目して生物多様性の理解の本質を問い直す本書は,類書にない内容と魅力があり,難解な専門用語を省いたその平易な語り口は一般読者にも広く受け入れられるだろう.
現代社会の中にすでに広まってしまった「生物多様性」という言葉の背後に潜む分類の「闇」はほかならないわれわれ人間の中にあることを本書は一般読者に向けて明らかにしようとする稀有の本である.だから,翻訳しようと思い立った.
[三中信宏記:2013年8月26日]
Que é pra acabar com esse negócio de viver longe de mim.
Não quero mais esse negócio de você viver assim.
Vamos deixar desse negócio de você viver sem mim.
(Chega de Saudade)