【書評】
※Copyright 2005 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved1972年に丸の内出版から出た初版の復刻.民俗蜘蛛学(folk arachnology)の単行本として,とても珍しく貴重な本だ.蜘蛛が糸を吐いて空を飛ぶという現象は,日本では〈雪迎え〉,外国では〈gossamer〉と呼ばれて昔から知られていた.本書の前半では,蜘蛛が糸を吐いて飛翔する“雪迎え(gossamer)”の「その瞬間」に遭遇するまでの苦労が縷々綴られている.後半に記録されている蜘蛛の配偶行動の観察記録もそうだが,ファーブルのような根気強い観察が印象的だ.
分断生物地理学(vicariance biogeography)の初期の論文のひとつに,クモ学者 Norman I. Platnick による「Drifting spiders or continents?: Vicariance biogeography of the spider subfamily Laroniinae (Aranae: Gnaphosidae)」(Systematic Zoology, 25 : 101-109, 1976)がある.飛行するクモ類の歴史生物地理学を論じた論文だ.クモ類の系統発生の過程で「空中飛行」という行動は,いったいいつどのようにして進化してきたのだろうか.
著者は,クモ類の系統関係と「飛行性」を論じた箇所(pp. 86-87)に注目したて,こう推測している:
わたしは現在のクモの造網性,徘徊性,地中占座性のいずれもが,これまでの進化の途上に,一度は太陽の照る地上生活を行ない,持ち前の糸を利用して,空中分散を行ない,個体の維持と種族の繁殖をはかった,そういう時期をへたのではないだろうかと思っている.その時の習性が,現在のクモの習性となって残り,孵化後のバルーニングとなってあらわれるのであるとみたいのである.(p. 86)
こういう進化仮説をテストするための系統樹はすでにあるのだろうか.
本書の後半で,著者はさらに一歩進んで,飛行蜘蛛に関する国内外の文学作品や資料を幅広く渉猟した上で,蜘蛛をめぐる民俗・伝説・寓意を集成する.井上靖の『しろばんば』のキーワード“しろばんば”とは“雪虫”ではなく“雪迎え”のことではないか,という問題提起とか,アリストテレスの動物学書を英訳した D'Arcy Thompson が“gossamer”のことに言及しているとか,また,梶井基次郎の作品に gossamer が出てくるとか,サイデンステッカー訳の『蜻蛉日記』のタイトルが『The Gossamer Years』と訳された逸話,あるいは“陽炎”とは gossamer ではないかという説への批判的言及など,本書には「蜘蛛文化」のさまざまな側面を見ることができる.古今東西の文学作品などを見渡し,飛行蜘蛛の軌跡を科学・文学・民俗をまたいでたどった著者の努力が伝わってくる.
三中信宏(29/July/2005)