【書名】動物進化形態学形態学者・発生学者の書く本が例外なく〈聳え立つ宮殿〉となるのは,何かしら「本質」的な理由があるのだろうか.今世紀にかぎってもアドルフ・レマーネの比較形態学本(1956),セーレン・レプトループのエピジェネティクス本(1974),ルペルト・リードルのシステム形態学本(1975),そしてブライアン・ホールの進化発生生物学本(1992)などなど,いずれもきわめて心理的ハードルのきわめて高い〈城〉の様相を呈している(とぼくには感じられる).
もちろん,ここで取り上げる倉谷本でも,形態学・発生学の長い系譜に連なる「本質的カテドラル性」は遺憾なく発揮されている.キュヴィエ対ジョフロワ,そのアカデミー論争を観戦するゲーテ,大陸の超越論的形態学に感染するスコットランドの形態学者たち,そしてフォン・ベアにヘッケル,ゲーゲンバウア,リチャード・オーウェン――あまたの役者に彩られた19世紀以降の比較形態学と発生学の系譜を行きつ戻りつしながらも,著者自身が貢献者のひとりである最先端の分子発生学に軸足を置き,さらには進化生態学との「新たな総合」まで目論んでしまう.おそらく登攀を試みようとする命知らずの読者は,著者独特の目線の確信犯的揺れ動きや路地に迷いこむような不安感に「悪酔い」してしまうのではないだろうか.
もちろんそれは現代の読者の多くが,このタイプの重厚な専門書に「酔い慣れていない」からであろう.ぼく自身も出版されてすぐに読み始めたものの,ちょうど中腹の第5章を読み終えた時点で力尽き,半年あまりもビバークしてしまったほどだ.各章の終わりに置かれている,章ごとの「まとめ」なる箴言は,少なくともぼくにはスフィンクスが旅人たちに科した「難問」のように謎めいていた.旅人や登山者を惑わす著者は罪作りだ.
しかし,たとえこういう“樹海”のような本であっても,地図もランドマークもなかったとしても,完読サバイバルできる道はある.簡単なことだ.旅人(読者)は,逡巡せず,とにかく〈倉谷ワールド〉に入ってしまえばいいのだと思う.「木も見て森も見られる」のは著者のためにとっておいて,この本に取り組む読者にはまずは「木を見ず森を見よう」とアドバイスしたい.たとえ,前世紀の豪傑ヘッケルや悪魔オーウェンが傍に近寄ってきたとしても震えあがることはない.文豪ゲーテが論じたロマン主義的メタモルフォーゼ論も解剖学者グッドリッチが提唱した体節起源論もどちらも形態学の歴史の中にあり,直接的・間接的に現代の問題状況と結びついている.
生物学が生き物のもつ「形態」に関心をもちはじめた,まさにその問題設定が生物学の始まりである.『Biology Takes Form』というリン・ナイハートの動物形態学史本(1995)のタイトルは,まさに表と裏のふたつの意味を生物の「かたち」に与えている.形態学や発生学の問題状況はもともとそれにふさわしい長い系譜をもってきたのだ.倉谷本は形態学の学問としての系譜をきちんと跡づけた上で,分子発生学という新しい視点から長らく論じられ続けてきた形態学の問題にアプローチしている.けっして誰にでも書ける本ではないからこそ,読者は現代の進化形態学のありさまを上空から鳥瞰できる得難いチャンスを手にすることができた.過去から現代へと継承されてきた「生物形態」の論議は,現代の知見のもとでどのように再評価されるのか,あるいは新しい方向へと道が開けていくのか.
形態学や発生学は時には観念論と叩かれ,あるいは超越論と罵られても,この学問系譜は「解かれるべき問題群」を確かに提示してきた――原型,バウプラン,ファイロタイプ,拘束など本書のキーワードとなる語はいずれも長い歴史をもち,さまざまな観念と思想が絡みついている.科学史を踏まえた現代的視点のもとで著者がこれらのキーワードが指し示す「問題群」にどのようなアプローチを取るのかが本書を読み進む愉しみと言えるだろう.
三中信宏(13/January/2005)