● 2011年7月27日(水): 西に東に駆け続け旅立ちの朝を迎える

◆成田空港第一ターミナルにて —— 蒸し暑い小雨の降り続く中,成田空港に余裕をもって到着したまではよかったが,珈琲充しすぎてしまい,気が付けばもう午前11時を過ぎていた.昨日までの日録を急いでアップしてから,出国審査場に駆け込む.事前アナウンスによるとワタクシが乗る予定のエールフランス「AF275」便は11:15から搭乗開始とのことだった.あと十分しか時間がないっ.しかし,夏休みではあっても平日の午前中だったせいか,長い行列もなく意外なほどスムーズにことは運び,17番ゲートの搭乗口にたどり着いた.

◆ばたばたとあわただしかった事前の旅支度 —— 出発直前に突然の泊まりがけの京都行きが割り込んでしまったために,昨夜の荷造り最終チェックで致命的な見落としがあったらどうしようかとびくびくしていた(今朝もばたばたしてしまったし).お金についてはすべて現金だから問題なし.十年あまり前に初めてブラジルに行ったとき,まだ海外旅行の初心者だったので,現金の代わりにトラベラーズチェックをうっかり用意してしまいたいへん苦労した経験がある.学会参加の場合,銀行や両替所が開いている時間帯は学会会場に拘束されている.宿泊しているホテルではトラベラーズチェックは換金できないおそれがある.前回のブラジル出張では安全なはずのトラベラーズチェックで苦労させられたので,それ以降は現金しかもたない主義を通している.クレジットカードと現金のみ,これでシアワセな海外出張が約束される.サンパウロに着いたらさっそくさまざまな国の通貨をへアルに一括換金してしまおう.

一方,講演関係の持参物(機材と資料)にミスがあると目も当てられない.しかし,発表用と予備用の MacBook Air 二台(11" & 13")を持参していけば最低限トークのしたくでハードウェア的にどうしようもなくなる事態には立ち至らないだろう.スライド用の素材は十分すぎるほど詰め込んであるので,あと残された問題があるとしたらブラジルの学会会場(&宿泊場所)のネットワーク接続環境だけか.こればかりは現地に行ってみないとわからない.

肝心の講演準備がぜんぜんできていないのはいつものことだ.話すネタはもう決まっているのであとはスライドさえつくればいいのだが,日本にいるうちはそういう気分的余裕がまったくない.優先順位からすれば最上位の┣┣" であることはまちがいないが,出国してはじめて正面から向き合う気持ちになれる.これから20数時間かけて南半球のブラジルに到着するまでにはきっと高座のイメージトレーニングだけは仕上がっているにちがいない(と思うことにしよう).

◆パリへの旅立ち(往路前半戦) —— 空港の館内全体で節電しているためかターミナルはそこはかとなく蒸し暑い.それだけに,きんきんに冷えまくりのエールフランス機中に入った瞬間の温度差が染み入るようだった.座席はほぼ満員.とりあえずシートを環境設定して,これから12時間の長いフライトに備えよう.半時間ほど遅れて離陸.水平飛行に入ってすぐのランチに,ちゃんとしたシャンパンとワインが供されるところはさすがエール・フランス.Le Monde 紙を眺めたりしていれば気分はもうパリ(まだはるか遠望だが).日本から中南米に飛ぶときはアメリカを中継することが大半だが,今回はわざわざパリまわりにしてもらったのは正解だった.その分,フライト時間はよけいにかかるけど,それくらいは笑ってガマンしましょう.長時間フライトでは何よりもまず機中環境が心地よいことが大前提だから.

◆ランチ後は消灯時間となり,読書灯のみが頼りになる.シベリア上空では乱気流のせいでかなり揺れた.機内読書:Julia Voss[Lori Lantz訳]『Darwins Pictures: Views of Evolutionary Theory, 1837-1874』(2010年刊行,Yale University Press, New Haven, x+340 pp.+ 16 color plates, ISBN:978-0-300-14174-0 [hbk] → 目次版元ページ情報).今回の長いフライトの間に読みきってしまおう.著者の基本的スタンスは,19世紀に進化思想が普及するのにあたっては,視覚的メディア(図像・絵画・写真・イラストなど)の貢献度が極めて大きかったことを積極的に評価しようという点にある.つまり,時空的変遷というプロセスを「系統樹」のような視覚メディアとして表現することにより,一般への浸透度が高まったという言説である.しかし,序論の中で,著者はもう一歩踏み込んで,ダーウィンやヘッケルは系統樹を描くことを通じて,進化学の思想を育んでいったのではないかと述べている.つまり完成品としての進化思想の売り込みにおいてだけではなく,進化思想という製品づくりの時点ですでに視覚的要素が深く関わっていたという推論である.これはたいへん興味深い.

◆長距離フライトの場合,座席にすわったままじっとしていると確実に足がむくんでしまう.ひどい場合には靴が履けないほどになってしまうことがある.そうならないように,できるだけ機内を(挙動不審に思われない程度に)うろうろするようにしている.成田を離陸して七時間を経過し,ロシアの北極圏側の海が近づいてきた.後部の窓から見下ろすと.雲海の下に蛇行する大河と湖沼がいくつも点在している湿地帯が見えた.真上からの陽光を反射して鏡のように照り返し,点在する雲を映しているようすは格別だった.ふだんはあまり窓越しに機外の風景を見たりはしないのだが,こういう景色なら眺める価値がある.

◆バルト海上空にて —— 成田を発ってすでに十時間を越えた.ロシアを過ぎバルト三国を越えてバルト海に進む.そろそろ疲労が溜まり始めているはずだが,まだ「日本時間」を引きずっているので,睡魔は降臨してこない.

◆『Darwins Pictures』の第1章「The Galápagos Finches: John Gould, Darwin's Invisible Craftsman, and the Visual Discipline of Ornithology」(pp. 14-60)を読了.チャールズ・ダーウィンのビーグル号航海でのガラパゴス・フィンチ標本を調べた王立アカデミーの鳥類学者ジョン・グールドの業績に光を当て,19世紀の鳥類学が「視覚的科学(visual science)」として成立した背景を論じている.「鳥の絵」がフィールドガイドのような鳥類図鑑として一般読者に普及した19世紀前半は,廉価な図版の印刷技術が広まったことが大きな理由だったという.グールドあるいは同時代のオーデュボンは上流階級向けに高価で豪華な彩色鳥類図譜を出し続けたが,それとはべつに一般読者向けのモノクロ図版の鳥類図鑑が流行したという.グールドは,ちょうどレンブラントのような「工房」を設立して,効率的かつ機動的に鳥類図版を描いては印刷していたようだ.

◆午後5時過ぎにパリのシャルル・ドゴール空港の第二ターミナル(F)にたどり着いた.入国審査が終わり,空港から直結している地下駅からRERに乗ってパリの中心部へ,郊外は治安の悪い場所があるらしく,所持品には十分に気を付けないといけない.RERは途中いったん地上に上がるが,市街地に入って再び地下へ潜る.繁華街の中心にあるシャトレ・レアール駅からメトロに乗り換えてさらに二駅.パリらしい街並みが残る一画に〈コレット書店〉があって,その向かい側のビストロ〈Cafe Le Bouledogue〉に入った.昔からある古いレストランで,ブルドックが看板犬らしく,二頭のブルドック(本物)が店内にいた.午後9時前まで食事をして,小雨の石畳をシャトレ駅まで戻った.気温は20度を下回っていて,長袖の通行人が多かった.いつもの年よりも気温が低いらしい.それにしても,パリジャンやパリジェンヌたちの足の速いこと.地下街の歩く歩道(これまた速い)を駆けるようにぱたぱたと追い抜いていく.

『Darwins Pictures』の第1章「The Galápagos Finches: John Gould, Darwin's Invisible Craftsman, and the Visual Discipline of Ornithology」の続き —— 図像学的な「解析」は状況証拠の積み上げがイノチであるだけに,いろいろとむずかしい問題が潜んでいるようだ.この章で,著者はダーウィンの「系統樹」に関する図像学的解析を行なった先駆的研究:ホルスト・ブレーデカンプ[濱中春訳]『ダーウィンの珊瑚:進化論のダイアグラムと博物学』(2010年12月10日刊行,法政大学出版局[叢書ウニベルシタス949],東京,16 color plates + iv+185 pp., 本体価格2,900円,ISBN:978-4-588-00949-5 → 目次情報版元ページ大学出版部協会ページ)に関して,ダーウィンの系統樹と生物としてのサンゴの表面的類似性だけでは多くを論じることはできないという批判的コメントを記している.しかし,ダーウィンの有名な「無根系統樹」がフィンチを念頭に置いた系統樹ではないかという著者自身の推論に対しても同様の批判がなされてもおかしくないだろう.

◆さて,長かった一日が終わろうとしているが(日本とパリとは時差7時間).往路の旅路はまだ半分も残っている.このままパリに根を生やしていたのでは公務にならない.とりあえず深夜の空港に帰らないと先に進めない.

◆本日の総歩数=3720歩[うち「しっかり歩数」0歩/0分].



Index: Hennig XXX, São José do Rio Preto, Brasil

  ← Index: Hennig XXX, São José do Rio Preto, Brasil